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ハンチバック

うまく理解できないし表現しようとすると厄介な話になるから見ないことにしたり先送りにしたりしていることは山のようにある。例えば戦争。例えば宗教。そして例えばしょうがい。オマエにはわからないだろうと言われたらぐうの音も出ない。しかしながら無知の為せる差別は驚くばかりだといまさらながら突きつけられた。

もう何回もさまざまな場所で引用されて来たくだり。この社会に障害者はいないことになっているので、と淡々と露わされる現状。

しかしながら立場が少数派になると、あるいは弱小なグループになると理解できるとまでは言わないが想像や共感はできるように思う。

もちろん市川氏の日常感じる不便には及ばないけれど、例えば今アスファルトの道路はほとんど緩やかなカマボコがたに中央が盛り上がって成形されている。雨水が自然に捌けるようにそうなっているのは想像できる。しかしこの形は子どもたちをのせたベビーカーを使って移動していた時代、脇に追いやられるのでとても不都合だった。結果的に道路の真ん中のスロープを感じない部分をなるべく使いたいと思うようになるが、車を運転する人々は邪魔だ!とあからさまに怒鳴りつけたりクラクションを鳴らしたりする。端を歩いたことなどないのだろう。

しばらくして足元のおぼつかない幼児を連れて歩く時も同様。ほんの少しのスロープで頭の重い筋力の弱い幼児は転ぶ。

さらにその後老いて行く両親が同じ理由で足元を取られる。中央部で歩いてもらう様に促すと、邪魔になるのは嫌だと遠慮する。時が進むと今度はその親たちに車椅子で移動してもらう時もこのカマボコ型スロープが恨めしく感じる。車椅子を1人で操作して動くのは正直怖くてなるべく避けてもらうように言っていた。障害がなんらかの形で運動を困難にしていたらその苦労がいかばかりか、想像出来ない無神経がこの社会を作っていると言わざるを得ない。

ソレなのにこの道路状況はそのまま。ソレどころか、自転車に乗りながらスマホを横目で見る若者や前後に小学生を載せた母親が猛スピードで走り抜ける危なさだ。

ここに運動に困難さを持った人が車椅子で通ることなど想像すらしていないのであろう。道路に代表される街中は危険極まりない。一体誰をマジョリティとして設定しているのだろう?

幼児は当然マジョリティではなさそうだし、子連れ妊婦も老人も病人も障碍者も違うだろう。しかし考えるに人口減少の今、働く人々は昼間あまり外を歩かない。人口減少の理由を全てこれに帰するつもりもないが、いわゆるマジョリティの働く人々がわに一旦入った女性たちが幼児や妊婦をどう受け止めるかについての想像力はお有りなのだろうか?あんなに邪魔にされるような弱者にせっかくのキャリアを捨てて成ろうなどと思うはずがないではないか?それはともかく、オフィスワークをする人々も何かを作る職場にいる人々も日中は職場を離れてそれほどウロウロするはずもない。住宅街を車で移動するのは宅配とコンビニ搬入車くらいだ。ならばなぜ道路は車が楽チンに通れる以外は不便で危険なままなのだろう。スイッチや標識やカウンターの位置なども同様だ。

ハンチバックの成した問題提起はもっと大事になって然るべきなのではないだろうか。無知な傲慢。そこら中にあるような。

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