誰も教えてくれなかったおしゃれのルール(アーカイブ)本物だけを見よ、見続けよ
残念ながら、この世には多くのまがい物が存在しています。しかも、そのまがい物はもう既に、本物を凌駕して、駆逐する勢いです。私たちは偽物をつかまされ、そのたびに、えも言えぬ不快な感情を経験します。
続く不満と満たされない飢餓感の中で、新しいものを次々と求めますが、なかなか心が満たされることはありません。
心が満たされることができなくとも、私たちは毎日、服を着てどこかへ出かけます。心の充足とは別に、服を着ることは必要だからです。とりあえず、体を守ること、私たちは結局、そのために服を着ます。
こんなにも多くの服が存在するのに、そして、こんなにも多くの服を手に入れたのに、それでもまだ満たされないのはなぜでしょう?
おしゃれに見せたいのは自分のためなのか、他人のためなのか、そのどちらも達成されなければ、永遠に心満たされることはないのか。ならば、その道は余りに遠いです。
今のように簡単に、しかも安価で服が手に入れられるようになったのは、つい最近のことです。
私たちは、モノがない欠乏からは解放されました。それなのに、かつてあったであろう、着ることに対する満足は得られません。
時間をかけて作り上げた、あの手の込んだ刺繍を施した、きらびやかな衣装を身につけている、少数民族の方たちが浮かべるあの満ち足りた表情を、私たちは服を通して作ることができません。
まがい物は、しょせんまがい物。暑さ寒さは防げるものの、心の満足を与えてくれるものではありません。
私たちの何十分の一しか衣装を持っていないであろう、残された少数民族の人たちのような、本物の衣服を、私たちは手放しました。合理性と引き換えに。市場主義経済のアンフェアな手法を使って。
本物をまとわない限り、私たちの心は満足しません。頭が考える価値や消費される情報など、それを満たすことはできません。
どんなにたくさんの衣服を集めても、その10枚は、祝いの儀式のために一針一針、丁寧に心をこめて刺繍した、あのドレスにはかなわないのです。
私たちが本当に必要としているのは、そんな本物のドレスです。
しかし、多くの本質を伴った衣服は駆逐されました。滅多に出会えないか、または高額すぎて手の届かないものになりました。
大好きで、何回も着て、すり切れても捨てるに捨てられない、そんな服は、どんどん少なくなってきています。
それでもやはり、この果てしない飢餓感から抜け出すためには、そんな服が必要です。それがなければ、この病いは治りません。
何としてでも、本物の服を手に入れなければなりません。それはごく数枚でよいのです。
けれども、多くの人は、もはやそれを見つけることすら不可能な状態です。本物など、見たことも、さわったことも、袖を通したこともないのですから、当然と言えば当然です。
けれども、ごくたまに本物はあらわれます。美術館で、展覧会で、ヴィンテージショップで、高貴な人のワードローブの中で、優れたコレクションで。
そんな希少な機会があったら、ぜひとも見に行く必要があります。そして、本物だけを見続けなければなりません。それが所有できないとしても、ただただ見続ける、その行為のみによって、本物に出会えます。
玉石混淆の中の宝を見分けるその目は、そうすることで養われます。
実際に本物を手に入れるのはそのあとです。よく見えないその目と、頭の計算で選んだものは、それがたとえどんなデータを持っていたとしても、本物とは限りません。
何枚持っても満足できないのなら、それはやはり本物ではなかったのです。
この世に出会うべき本物は、そう多くはありません。また、誰かにとっての本物と、自分にとっての本物も違います。
それが1つでも手に入ったならば、いつでも何か食べていなければ気が済まないような、絶え間ない飢餓感から解放されるでしょう。そして、服なんて、そんなにたくさんいらなかったのだと気づくでしょう。
そのためにも今すぐ決意してください。本物だけを見ると、見続けると。そうすれば、いつか本物は手に入るでしょう。本物だけがあなたに満足をもたらします。
2015・01・12
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