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「エイジレス」なのか、そうでないのか

「エイジレス」、つまり、年齢など関係ないという考え方は、ある意味において正解であり、ある意味においては正解ではありません。


例えば、年齢を理由に何かに挑戦しなくなるのなら、そのときは、年齢は考慮すべきものではありません。しかし、経験や肉体という意味においては、年齢を無視することができません。


「エイジレス」を意識したり、うたったりするのは、概ね、年齢が上の人々です。20代のときは、誰もが自分の年齢など気にして生きてはいないものです。なぜなら、彼らは若さが永遠に続くかのように錯覚して生きているから。


その若さを失いかけたとき、人は「エイジレス」ということを考え始めます。皮肉なことに、年齢を意識したからこそ、年齢など関係ないと思い始めるのです。


ファッションにおいても「エイジレス」を叫ぶのは、若い人たちではありません。若い人は、年が上の人と同じスタイルをしたがりませんが、「エイジレス」を意識している人たちは、若い人と同じ服を選択したります。それは意図的に、あるいは無意識に。


若い人から年配の人まで、幅広い年代を想定して作られた服は、しょせん、どの年代にも似合いません。結果的にそれを選ぶのは、年配の人のみ。若い人が、わざわざ老けて見えるその服を、選ぶことなどしないのです。


その人にとって年齢とは何なのか。生きてきた事実は隠せません。その経験は、消し去りたいものなのか、誇れるものなのか。それによって、年齢をどう解釈するかも変わってくるでしょう。


誇れるような経験を、誰にも奪われないキャリアを、ダイヤモンドのように磨かれた肉体と精神を持っていて、それを得るために年月をかけたと認識するならば、年齢は、誇れるものでしょう。その人は、それらかけた年月にふさわしいスタイルを選ぶでしょう。

それは鉱山から削りだされたばかりのダイヤモンドの岩石に似合うものではありません。ふさわしいのは、人の手が多くかけられた、ラグジュアリーな素材や仕立て、そして本物のジュエリーです。それらは磨かれた知性と品性をより一層輝かせ、年齢を超えた美しさを与えてくれます。


一方、ただぼんやりと、日がな一日、世の中のよしなしごとを眺めるがごとく、年月を費やしてきた人ならば、その人は、あるいはまだ原石のままか、または逆に薄汚れてしまった石のようで、それほどの重厚な、仕立てや知的にデザインされた服など、あえて着る必要はないのかもしれません。


年齢とは、つまり、その人の問題なのです。

あの人の40歳と、私の40歳は、全く意味が違います。誰かの40歳と私の40歳を比べることはできません。努力して積み重ねてきたものがある40年と、ぼんやりと過ごしてきた40年が同じであるはずがありません。


若い人は敬意をもって、自分というダイヤモンドを自力で磨きあげた人たちを見つめるでしょう。そういった彼女らは、憧れの対象です。その傷や痛みは勲章です。それなしでは、今の輝きは得られなかったのですから。

そんな彼女らにとって年齢は、誇るべきものです。「エイジレス」など、とんでもないのです。自分がかけてきた年月を無視することなどできません。だから、そんな彼女らが若い人と同じ格好など、する必要はありません。それはもはやふさわしくないのです。その輝きを満足させるものではないのです。


私たちは、相変わらず、若さが礼賛される社会で生活しています。しかし、あるとき気づくでしょう。そんな若さなど、欲しいものでも、憧れるものでもないということに。


私たちが本当に憧れるのは、年齢を重ねてもなお美しい人、知性があり、品がある人ではないでしょうか。

クロノスがつかさどるところの時の流れに逆らえない運命ならば、若さをしのぐ魅力を持ち、永遠に届くことができないような、嵐や困難をくぐりぬけてきた、勇敢な魂がきらめく存在にこそ、なりたいのではないでしょうか。


怠慢の逃げ道としての「エイジレス」ならいりません。薄っぺらい若さの看板など吹き飛ばすような、一瞬にして心奪われるような、そんな年齢を重ねた魅力こそ、私たちが目指すべきものでしょう。

そんな存在になれたなら、それにふさわしいスタイルをすればいいのです。

誰もついてこられないような高みを目指して、上昇するのみです。

2016・02・19


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