誰も教えてくれなかったおしゃれのルール(アーカイブ)服が人を美しく見せるわけではない
ある服を着ることで、その人が美しくなるのかという疑問が私たちの心に湧きあがる前に、それは、美しくなるに決まっているのだと、いつでも、どこでも、繰り返し言われたり、書かれたりしてきました。
しかし、それは本当なのでしょうか。
ここでマルグリット・デュラスの「愛人(L'AMANT)」の一節を引用します。
「女を美しく見せたり、見せなかったりするのは服ではない、念入りなお化粧でもなく、高価な香油でもなく、珍しく高価な装飾具でもないということを、わたしは知っている。」
このように小説家は断言します。
私たちは何となく、その美しい服さえ着れば美しくなれる、その高価な装身具をつけさえすれば美しくなれると、信じ込まされてきました。
そう信じ込まされてきたからこそ、今まで多くの投資を、忘れてしまいたいほどの過ちを、クローゼットの中の隅っこに隠したまま、長い年月を過ごしてきました。
けれども、服は私たちの下僕であるべきで、主人であってはいけません。下僕のいかんにより左右される美しさを、私たちは本当に欲していたのでしょうか。
その言葉は誰によって発せられたのか、私たちは注意して調べる必要があります。
ティム・ガンという大学教授が、女性に必要な10のアイテムを推進しています。
白いシャツ、タイトスカートなどを、女性は持っているべきであると言います。しかし、ティム・ガンとはどこで何を教えている教授なのでしょうか?
彼は、FIT、つまりニューヨークのファッション工科大学の教授です。アートの学校ではありません。工科大学、つまりテクノロジーのための学校です。彼は、量産が前提の服作りの学校の先生なのです。
ですから、すべての人に同じものを持ってほしい、そう考えているのです。なぜなら、量産こそが彼らのねらいだからです。
これがもし、パリのオートクチュールの服作りのための学校の教授だったら、このようなことは言わないでしょう。
確かに美しい服は存在します。アートとクラフトが融合し、100年、博物館に飾ってもおかしくないデザインがなされた美しい服は、多くはありませんが、確かに存在します。
一方、ひとの美しさとは、着るものに左右されるものではありません。
肉体の美しさもさることながら、しぐさの美しさ、心の美しさ、言葉の美しさなど、どんなものを着ていても、十分に察知できるものです。
もしそれが着るものによって左右されるのならば、その美しさは空虚で、偽りのものでしょう。
服とひとは対等ではありません。あくまでひとが主で、服が従です。私たちは、決して服のいいなりになど、なってはいけないのです。
どんなに完成度の高い美しい服を着たところで、ひととしての美しさがないのならば、それはショーウィンドウのマネキンと同じです。
もしそのひとの着ている服だけが印象に残ったのなら、そのひとはたいして美しくはないのです。
ひとと服の主従関係をはっきりさせ、服に従う人生から、早く抜け出さなければなりません。
その服を着れば美しくなりますよとささやいたそのつぶやきが、誰から発せられたのか、見破らなくてはなりません。
まず最初に私たちが本当にすべきなのは服への投資などではなく、ひととしての美しさを養成したり、栄養を与えるための投資です。
それが完成の域に近づいたとき、ほんとうに美しい服は、あなたの忠実な下僕となって、あなたの美しさをより輝かせるでしょう。
その時期がいつ訪れるのかは、ひとによってさまざまです。
本物のデザイナーは、そのときに貢献する服を作っています。私たちはそれを選べばいいだけです。
勉学に励んだり、広く世界を旅したり、運動したり、読書したり、楽器の練習をしたり、料理をしたり、どんなひとともコミュニケーションできたり、ひとつの技術を磨いたりすること、そして美にふれること、誰かのために祈ることが私たちを美しくさせます。
美しい人にこそ、美しい服がふさわしいのです。
小説家が知っていたように、女性を美しく見せたり、見せなかったりするのは服ではないと、多くの人がうすうす気づいていたことでしょう。
今はそれを確信に変えて、やるべきことの順番の見直しをしてください。
そのときまで美しい服たちは、あなたのことを待ち続けています。
文中引用:「愛人」 マルグリット・デュラス 清水徹訳
河出書房新社 1985年
2015・04・15
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