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昭和女のスピリチュアル?☆ジャーニー          in 奈良

今回は、珍しく小説とはまったく関わりないものを書いてみました。

創作大賞2024に初めて参加した後、手持ち無沙汰になってウロウロウロウロ

平日夜も休日も家の中で彷徨う日々が続き……。

やっぱ、目標がないとダメだな~と今さながら痛感 (;^ω^)

そんな時に行きあたったのが、コレ。
この素晴らしい企画!

このくっそ暑い季節にぴったりの、一週間という長~い盆休みを満喫し、なおかつ参加をしている時だけ暑さを忘れることもできるという一石二鳥の素敵な催し✨✨


その企画とはこちら……


☀この記事はクロサキナオさんの企画参加記事です☀
#クロサキナオの2024AugustApex

クロサキナオ【イベントラベル】イベント記事のご紹介マガジン


というわけで、書きたくなっちゃたので参加します(*^▽^*)

さて、ここから本題です。

人間は、毎日の生活で目指す事柄、目標、用途がないと簡単にダメ=自堕落になる生き物だと思います。
私の場合は、それらの設定を「エサ」としています。

ところどころ、言い回しが古臭いのは昭和後半(かな?ウフフ)生まれだから。
そう、このお話は今からウン十年前の一人旅の出来事を綴りました~🚃🪂



■なぜに奈良?


それは今から〇十年前のお話し(^^♪

高校時代にはまった「ⅼ日出処《ひいづるところ》の天子」(著:山岸涼子)という漫画が発端でした。
ご存じですか? 
滅茶苦茶おもしろいんですよ! この漫画💗💗 (←ハートマークを100個付けたいくらい)
不朽の名作です。


白泉社・花とゆめコミックスより
当時刊行されていた漫画本

↑ 現在は装丁を新しくして刊行されていますね。

カリスマ的な人物描写の素晴らしさももちろんだけど、私はこの世界観そのものにどっぷりとはまってしまい……。
今でいう「沼った」ですかね?
そう、沼った私は、この皇子様と同じヘアスタイルをして日々登校したものでした(≧∀≦)ゞ

やるでしょ?
角髪みずらっていうんですよ、この不思議な髪形。
この皇子さまはお洒落に崩してセットされてますけど、普通はコレ↓


出典元:ウィキペディアより(聖徳太子像)

セーラー服に、できうる限り上記の皇子様に似せて角髪みずらを結った女子高生。
珍妙な姿に、担任もクラスメイトも廊下をすれ違う人たちも結構引いてました。
当時の写真をお見せできないのが残念です😁

でも、共感してくれた子がいたのよね。たった一人だけ。
もちろん、その子も角髪みずら
しかも髪が長く、色白の和風顔で私より遥かに似合っていたから、周りのウケもよかった。
ひっそりと陰でほぞを噛んでいた私……(;´д`)ゞ
天パで色も黒かったですからね😓

脱線したので、本線に戻します!

社会人になってからも、古代の奈良で繰り広げられていた血みどろの愛憎ロマンが忘れられず、ついに23歳の時に一人旅を決行したのです。

今みたいに、スマホはおろか、携帯電話がない時代。
ポケベルはあったかな?
パソコンが一般家庭に普及し始める直前だったかな?

つまり、旅の情報収集は雑誌や本にしか頼るスベがなかった時代です。
奈良の情報誌一冊と日出処の天子数冊だけを頼りに(漫画は心の慰めとして)、北海道から旅立ちました。

ひとりで!

季節は8月旧盆が過ぎた月末頃。
たしか、札幌の気温27℃くらい → かたや、関西地方33℃。
今よりずっと過ごしやすい気温ですが、北海道民にとって当時はこれでも体感的にかなり暑かったのです。

こうして初めてのひとり旅が始まったのでした🛫💺🛬


■キョーレツな女性たちのお出迎え


奈良とうちゃ~く!!

遅い便で行ったので、宿へ着いたのは夜でした🌃

宿は、奈良市内の猿沢池近くの、とある民宿・素泊まり。
ライダーさんがたくさんいました。
現場従事している風のおじさんも結構。
そんな中、夜遅く足を踏み込んだ私。
早くも場違い的な空気と視線を感じ、「しまった、宿選びシクッたか⁉」と後悔が頭をよぎります。
来る途中も、観光名所という猿沢池の迫力に脅かされ(夜だからね)、池の周りでチラホラといる濃密に絡み合うアベックにやられてきたから、余計ナーバスになっちゃってました。

そして、案内されたお部屋は………………。
開けてビックリ、入って仰天。
ワイドサイズのシングルベッドが2つデーンと並ぶ、たぶん12帖くらいの広すぎる部屋。
赤いベルベットとオレンジとどピンクと、金の刺繍の洪水。壁一面鏡張りときて、正面は大きな窓、頭上は観光バスの天井にぶら下がってるような金色に煌めくシャンデリア。
そして極めつけは、巨大な油絵。

飾り棚から上部すべてが鏡張りという壁に対して、真正面に向かい合った巨大な一幅の絵。
2人の女性が古風なドレスを着て、直立不動で正面を向いて立っている。
微笑み一つない、大きすぎる人物画。
まるで、ヘレンケラーのサリバン先生の世界を彷彿とさせるような画風。
(え? わからない?😓)
その等身大の油絵が、ベッドの枕元頭上に飾られているのですよ。

え? どういうこと?
↓こういうことです。

たしか、こんな色彩だったような記憶😅


ちなみに、室内のどこへ逃げようが彼女たちの視線は追ってくる。
真下に寝転んでも見下ろされ、真横へへばりついても横目で視線が飛んでき、飾り棚に向かえば鏡越しでいつでもバッチリ目が合ってしまう。

これは無理だ…………。

この夜、私は半べそを掻いて親へ電話をし、一晩中灯りを煌々と点けてほとんど一睡もせず夜を明かしましたとさ。
翌朝、ホールで朝食を食べて逃げるように宿を後にしたのは言うまでもありません。
余談ですが、他の部屋も同じかコッソリ見て回ったけど(皆さん開放的で、ドア開けっ放しとかで覗けたのだ)、全然フツーのお部屋でした。
あんなに大勢宿泊客がいたのに、なぜあんな広い部屋に私があてがわれたのか。
いまだに謎が解けない、まゆ川七不思議のひとつとなっています。


■はるばるきたで、大和の地へ


ついに来た。
憧れの地、まほろばへ。
我が愛する日出処の天子の舞台へ。

奈良盆地の南端近くに位置する、明日香村。
かつて飛鳥京が栄え、中央集権律令国家が発祥した、古代ロマンが溢れる歴史の宝庫の地。

道産子である自分は見慣れている、だだっ広い平原、田んぼ、畑なのに、趣きが只事でないのを肌で感じ取る。
遠くに見える、背の低い優美な曲線の二上山と畝傍山の稜線。
青すぎる空に綿のような雲が、小さくひと固まりとなってぽっかり浮いているだけ。

暑いけど、この時間が止まったような気配はなに?
暑いけど、現代的な音がまったくしない静寂さはなに?
暑いけど、近代の建物がひとつもなく、日本の原風景だけが広がっているこの時空を超えたようなエモさはなに? ←現代風に表現すると ^_~


当時の私が感じて、見た情景はこちら。

明日香村

瓦屋根に鬼瓦、なんてものも生まれて初めて見たし、それがこの地の普通の民家のどこの家にもある装いだなんてことにも驚きました。
家の敷地内にお稲荷さんがあるのにも目を見張る。
同じ日本とは思えない、あまりにも風習と歴史と土地柄の違い。
住む土地と育った環境・土壌が人間を形成する…………といったことを、ちゃんと考え始めたのはここからかもしれないなあ。

で、当時あまり観光客が多くなかったので、のどかな田園風景と寺院・遺跡巡りをゆったりと徒歩で丸一日かけて楽しんだのですよ。
厩戸皇子うまやどのみこ生誕の地といわれる橘寺、日本最古の仏教寺院飛鳥寺で逸話と説法を拝聴し、石舞台古墳でどんな祭祀が行われたのかと妄想しながら寝そべってみたり。

↓当時の飛鳥寺。

風もなく、緑の大地からゆらゆらと立ち昇る陽炎を眺めて歩くのは楽しかったですね。
頭上では、奈良のトンビ(たぶん)が飛んでいることにも感激。
さすがに、髪の毛を角髪みずらスタイルにはしなかったけど、私の妄想内の古代飛鳥人たちと一緒に散策している気分を味わい尽くしました。



■運命の出会い?


2日目。
日出処ひいづるところのロマンを後にし、やってきたのは吉野山🌸奥吉野🌸

そうそう、お宿は大阪の丸ビルというホテルにしたので、大阪中心部から電車を乗り継いで吉野終点へ辿り着いたのですよ。
(※大阪丸ビルは建て替え前の時のです)

ここへは何をしに来たのか?

そう、私は平安から連なる中世も好きなのです。
とりわけ、南北朝時代という、戦乱に明け暮れた内乱の世。50年にわたる政権不安定な空白期間、朝廷が2つ存在するなんて日本史上類をみない特殊な時代が。
そして、謀略、裏切り、悲劇、非業の匂いがプンプンするではありませんか。

日本人は判官びいきとよく言うけど、私ももれなくその一人!
南朝を吉野の地で開朝した、なんだか灰汁が強く、謀略に長け、信念と不屈というイメージが付きまとう御方。後醍醐天皇。
ここにまた壮大な脳内妄想が広がり、ロマンを求めてやってきたのです。

ということで、終点吉野駅に降り立ち、まずは吉野山ロープウェイに乗って、いざ入山🚡


出典元:奈良県公式HPより

写真は桜満開の季節の頃のですね。
吉野桜は古より和歌にも残るほど有名ですが、真夏の緑深い吉野もまた格別な趣きがあります😊

↓こちらは、当時ロープウェイ車内から撮影した吉野山。

今からウン十年前の吉野山


↓南北の峰に跨り、こういう『街並み』となっています。

出典元:吉野山観光協会「世界遺産登録20周年記念街並みライトアップpdfより


黒門を潜って、道順通りに(一本道なので)寺社仏閣をひたすら巡ります。
訳がわからなくても、行く手には旅慣れた方々がわんさかといるので会話や説明を聞きながら後に続く。
ツアー御一行もいたので、混じってガイドさんの説明も聞かせてもらいました。
金峰山寺蔵王堂を越えるとだんだん観光客も少なくなります。


↓金峰山蔵王堂。吉野山一帯は、古くからかね御岳みたけ『金峰山』と称され、古代から世に広く知られた聖域とされたそうです。こちらはその本堂。

出典元:吉野山観光協会公式サイトより



目指すは、北峰の先にある奥千本口という吉野山の最奥。
青根ヶ峰という古代の修験道入り口に続く、吉野山観光名所の最奥地が目指す最終地点。
皆さん、ケーブルバスにとっとと乗り、ちゃちゃっと向かっているようですけど、私は古の息吹を感じたかったので黙々と愚直に歩き続けました。
たしか記憶によれば、観光道を逸れてあえて脇の山道へ足を踏み入れていったような覚えが……。(前方を歩く人につられたような気がします😓)
山の尾根のような結構すごいポイントもあった気がしますわ。
絶景だけど、今思えばかなり危険。

一時間半は歩いたんじゃあなかろうか?

奥千本口に到着!!
杉山の中に西行庵とか、松尾芭蕉の句碑があって、バスで先にやってきた人たちが寛いでおりました。
私たち、自前の足で登山してきた行脚組は、まさに登頂を果たした気分で虚脱中。
疲れ果て、虚ろな頭のまま吉野の連なる山々を眺め、今度は正規のルートで観光道を下りました。
上千本エリアにある*吉野水分神社を得て → 途中、脇道にそれて*牛頭天王社跡へ寄り道。皆さんぞろぞろと向かうので、ミーハーな私はもちろん後に続きました。

*吉野水分神社 : 水の分配を司る天水分大神(あめのみくまりのおおかみ)を主祭神に玉依命(たまよりひめのみこと)(神像は国宝)以下6柱を祀る世界遺産の神社。子守宮(こもりのみや)ともいい、子授け・安産・子どもの守護神として篤く信仰されている。

出典元:吉野山観光協会公式サイトより
出典元・吉野山観光協会公式サイトより

*牛頭天王社跡 : この地の上方、高城山にあったツツジが城の鎮守社として創建され篤い信仰を集めていた神社でしたが、明治初年の神仏分離令により廃絶され、現在では石段が残るのみとなっています。 

出典元:奈良寺社ガイド吉野町より
出典元:奈良寺社ガイド吉野町より


そして、道民にはあり得ん光景が……。
切り通しみたいな山道のあちこちに剥き出しになった大木の木の根が地面を這い、その生き物のようなぶっとい木の根元には赤マムシがウジャウジャ。
あっちにもウジャウジャ。こっちにもウジャウジャ。ε=ε=ε=┏(゜ロ゜;)┛

例えていうなら、うーん……特大ところてんのような物体を辺り一面にぶちまけた感じ?
ごめんなさい。表現方法が見つけられません😓 

↓参考画像(実際はもっと細くて小さかった)

出典元:copywright(c)アウトドア趣味に関する総合情報サイトより


ブルっときますよね? 私も書いていて、何度見ても背筋に怖気おぞけが走って助かります

なぜなら、今は真夏の8月で、今日の室温は33℃。、室内クーラーなしだから。
道外でお住いの方々には信じられないですよね? クーラーなしの生活だなんて! 
私もそう思います。
だから、今年はエアコン配線工事をやっと行いました。本体だけまだ付けてないのです。
なぜなら、工事業者が夏のかき入れ時のためスケジュールが9月まで埋まっているから。9月って、もう夏終わりですよ。 お・わ・り! 北海道の夏は短いの! 
ということで、配線工事だけやって今年はエアコン設置見送りました。
また脱線したので、戻ります。

見出しの「運命の出会い」があったのですよ。
「運命の」は、かなり盛りましたけど (‾◡◝)

この辺り一帯で(たしか)、なぜかピクニックのように自炊している人たちがいました。
皆さん、頻繁に訪れているような慣れた様相。まるでその辺の地元の山へちょっくら登ってみたよ、みたいな気軽な感じ。
この悠久の歴史ある土地にはちょっとそぐわなくて、遥々北海道からやってきた身としては正直異様に見えました。
そのうちの一人に声をかけられたのです。

えぇーーー? まさかのナンパっすかあ??

と、色めき立つも、よく見るとそれはご老人でありました。
こらっ! 失礼にも程があるだろう! とお叱りを受けちゃいますね。
いや、本当はご老人というほどお年は召しておらず(この後年齢聞いた)、まだ還暦を迎えたばかりとのこと。
でも仕方がない。だってまだ若かったんだもの、私。若い娘から見たら、おじさん以上は皆ご老人に見えるんすよー。

「どこから来たの?」
「北海道からです」
「……ひとりで?」
「はい」

当然、根掘り葉掘り聞かれましょう。
おじさんにとって、その時の私はどう見えたのか。「これは面倒を見てやらなきゃならん」という義侠心を呼び覚まされたのかもしれません。
おじさんは広げていた自炊グッズを手早くリュックへとしまい、私をクイッと誘うのです。

「おじさんがこの吉野山を案内してあげるよ。ついておいで」

布袋さん(BOOWYのではなく七福神の)によく似た面立ちと体型の、神戸出身のおじさん。
聞けば、当時阪神大震災から数年後の時期だったので吉野の親戚の元で避難生活を送っているとおっしゃっていました。

そして、この誘いのうまさ。
今の時代、こんなにサラッと女の子をナンパできる人はいるのでしょうか?
今思えば、すごい手管だったと思います。マジで。
当時の私は世間知らずなうえに無邪気な怖いもの知らずだったので、もちろんついて行きました! o( ̄▽ ̄)d


■『ナンパ』からの、いざ本丸へ


乗り物は、今も昔も二人乗りアウトなスクーター🛵🛵🛵🛵
吉野山のカーブばかりの山道をスクーター二人乗りでかっ飛ばす私たち。
もちろん、ノーヘル。
気分爽快でしたね。大昔に読んだ『ホットロード』という漫画を思い出しました。

乗り物でしか行けない所へ連れて行ってくれたおじさん。
私が南北朝時代が好きだから吉野山に来たというと、「それならばここだ!」と連れて行かれた、とある寺院。
その名は如意輪寺。
南朝をここ吉野へ開闢された後醍醐天皇により、勅願寺に指定された南朝鎮護安寧のお寺です。
(※当時は真言宗でしたが、江戸時代に浄土宗へと改宗されてます)
寺に隣接して後醍醐天皇の御陵もあり、菩提寺として現在に至っているそうです。


↓ 当時お参りした如意輪寺。撮影の腕が悪く、ピンボケしてしまってます😓

当時はここまでのケーブルバスはなかったので、訪問は諦めてました。
やったー!
御陵参拝のための、布袋おじさんとの出会いだったのか? もしかして💡
と、妄信してしまうほどの都合のよさ。
調子に乗った私は、やらかすのです。
とんでもないことを。

言うなれば、それは『若気の至り』というやつ =.=

頭上はどんよりとした曇り空。
その時間、寺への参拝客は誰もおらず、私とおじさんしか境内にはいなかった……。
本堂の裏にある、林に囲まれるようにひっそりと存在する小さな御陵。
真っ白な玉砂利を一歩一歩踏みしめて御陵へと近づく。
お寺の方とは空気が明らかに変わったのが、当時鈍感な私でもわかったくらいです。

あ、これはちゃんとしなきゃいかんやつだ。

霊感は一切ありませんが(と思っている)、さすがにピリリとした空気は感じ取りました。
聖域ってやつですかね?
あの場の空気が一瞬にして変わる聖域、もしくは静寂な中に永劫の時を重ねゆく神聖な霊廟。
襟を正す経験をしたのはあれが初めてでした。

なのに、私は突然に魔がさしました。
段差の低い数段の石段が、防波堤のようにこちらの世界とあちら側を区切っている。その石段の先にあるものは、丸く盛り土をされた御陵へ近づくものを阻止するように一直線に建て付けられた柵。ピインと張りつめた、どこか憚るような空気。目が離せない。私は足元の、御陵境内の玉砂利のひとつを掴み取った…………。

何かに取り憑かれてでもいたのでしょうか?
まったくの正気でしたが。

お寺の人か警備員の人がいたら大騒ぎになっていたことでしょう。

あの時、傍らで布袋おじさんが「取れ、取れ!」としきりに私をけしかけていました。
その言葉に操られるように盗みを働く私。
宮内庁管轄ですからね、御陵は。
何よりも、不敬極まりない所業でもあります。

その土地にある樹木・草花・石・岩・土に至るまで不用意に持ち出すことならず、と昔から言われることです。
それくらいの知識と良識はあったはずなのですが……。

決しておじさんのせいにするわけではありませんが、あの時なぜおじさんはああも執拗に私に御陵内の石を持って帰るように勧めたのか。今もって謎です。 

吉野駅へと帰る道中、如意輪寺近くのある一帯に不思議な場所を発見。
天に向かって聳え立つのが樹木のあるべき姿。
そしてスクーターから睥睨できる視界には、奇怪に曲がりくねった樹木の海。
樹齢何百年だろうと思わせる大木が軒並み、太い幹も枝も一様に曲がりくねっているのです。まるで苦悩し、見悶えるかのような。
うーん…………これは一体…………。

「この辺だけなんだよね、こういう現象が起きているのは」

おじさんもよく知らないらしく、そうひと言だけ説明してくれました。
スピリチュアル、パワースポット。
当時はそんな言葉はまだ出現していませんでした。
でもあそこは、たぶんかなり場の気というものが強い所なのでしょう。その近くに後醍醐天皇が眠る御陵があるということに、なんだか知らないだけで目に見えない世界の何らかの結びつきを感じてしまいました。

吉野駅まで送り届けてくれた布袋おじさんとは、そこでお別れ。
地元名物の吉野葛や吉野山料亭の御膳をご馳走になり、お土産まで持たせてくれました。
なのに名前も住所も聞かなかったーーーーー ;_;

それが今でも悔やまれる。痛恨の極み、ふたつ目。

こうして、私の憧れの奈良旅は終わり、次は三重県境いへと向かうのでした。


【後醍醐天皇遺勅】
"玉骨はたとひ南山の苔に埋まるとも魂魄は北闕の天を望まんと思ふ"

天皇家の墓陵としては唯一北向きとなっていて、「北面の御陵」として有名。

ニッポン旅マガジン プレスマンユニオン編集部記事より一部抜粋

北向き。
それは自身が追い落とされた京の都の方角。
絶対に許さず諦めないという不撓不屈の執念がこうして現代にまで残り、語り継がれ、胸に迫るものがあります。



■余談

窃盗を働いた私は良心の呵責に苛まれ、その後どうなったと思いますか?

大事に大事に恐れおののきながらも、石を大切に祀って保管し…………。
数年後、やっぱり石をお返しに行ったのです。
やはり同じ時期の8月旧盆明けの月末近くの日に。
お詫びをしに行くので、盛装をしてお供えする花束を持って再び御陵へ詣でました。
この時受けた様子は……。
前に来た時ほど、厳しく刺すような空気は感じなかったような?
本当に申し訳ございませんでした。

無事お返しできて本当によかったです。
今からウン十年も前の出来事で、つい昨日まで忘却の彼方においやってましたが、なぜかこのけしからん話を告白しようと思い至りました。
やはり8月だからでしょうか……。

皆さんも、私のような罰当たりなことはくれぐれもなさいませんように。
誰がするかってね😓
これは大変失礼いたしました。


⁂三重県境いの旅のお話しは、いずれまたご紹介させていただきまーす🙋‍♀️



























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