私の周りには、もう誰もいないから。 #あの日のLINE
こちらの記事は #あの日のLINE をテーマに、LINEにまつわるエピソードをくつざわさんに執筆いただいたエッセイです。
みのりへ
さっきまで会ってたな
「あの日のLINEってテーマで記事書くんだけどさ、みのりを題材にしたらどうせなんかネタあるだろうと思って」って。
どれだけぶっきらぼうに誘おうが快く了承してくれるのは8年前から変わらんよな。
さて、今日はこの場を借りてお礼をしたい。
遡ると中学生、新しいクラスの出席番号順の席の手前に君がいたわけだけど、「何でもええんかこいつ」って思うほどに私の言動全てに変な笑い声で返してくれるもんだから、私は面白いのかと勘違いしていろんな場面で痛い目にあったわ。
8年経った。まだ私たちは21年間しか生きてないから年数で言えばさほどかもしれないけど、やっぱりガキから大人に変わるその瞬間を共に過ごしたというのは、大人になってからの8年より尊いものだと思うよ。
何度かの誕生日、何度かの受験、なぜか毎年君もいる家族の忘年会、なぜか起きたら横に君がいる朝、ケツの青い悩みも大きく思えた日。
くぐる校門が違えどなぜか君といる放課後とか、いつからか書かなくなった日記6冊全てに出演する君の名前とか、何も変わらない成人式の早朝とか。
「人生の節目」とか言うけど、実際全部どんな日でも節目みたいなもんだと思ってるよ、今は。
この前久々にすたみな太郎行ったじゃん、高校の頃よく行ってた店舗が閉店しててさ、わざわざ別店舗行ったじゃん。相変わらずの学生料金で、クレープとか作ってさ、みのりは相変わらず冷えたたこ焼き美味しそうに食べてるし。
そんとき、唐突に「私の周りにはもう誰もいないかもしれない」って柄にもない発言したじゃん。
いや、友達はきっと多いよ。飲もうって行ったらいつでも飲みに行ってくれる人はたくさん居るし、みんな大好きで、楽しいよ。きっと交流の幅も、比べるなら広いよ。
確かに同年代の友人と会う機会はもうほぼない。会っても何を話せばいいのかわからない。その上仕事の話でもしようもんならマウントのように思われるんじゃないか。ケツの青かった自分が嘘かのように気を使う。かといって気兼ねなく話せるはずの大人たちは結局「若いのに大変だよね」の言葉。私、頑張れば頑張るほど誰の何処にもいなくなっている。何処にもいない。
そうやって言うと「え、私がいるじゃん」と当たり前に言ってしまうものだから調子が狂う。
家族と一緒にいる時間をいちいち「楽しい!」とは思わないように、当たり前の関係になってくると当たり前のように時間を過ごす。
すたみな太郎での時間を当たり前かのように、前と変わらず過ごす君と
「前みたいな時間が過ごせている、よかった。」と謎の安堵に浸る私との間には
どれくらいの距離が生まれたんだろう、と思っていたもんで、調子が狂ったわけだ。
今日。さっきまで会っていた時間も、言うなれば私の都合だ。私の仕事に付き合ってもらっているに過ぎない。「私のLINE、トーク履歴消えちゃってるから」という理由があるから会った。過去のように理由なく会うこともなくなってしまった。
いつも通り駅構内のスタバで待ち合わせをした。
教師を目指して教育実習真っ只中の君は私にiPhoneを預けてから少しするとうたた寝を始めた。もちろん、君の指紋がなくともロックは解除できる。
何かいい素材ないかな、なんて数年前のLINEを遡る。
きっと昔なら「なあこのLINEやばくね!?バカだわ〜」と起こしていただろうに、別にうたた寝を邪魔したところで怒りはしないことは知ってる。それどころか一緒に笑ってくれるだろう。けど、今目の前でゆらゆら眠る君と、画面の奥の過去の私を見つめる「今の私」は別の場所にいるような感覚に陥っていた。
ただひたすら、LINEの中の私を見ていた。
LINEのアルバムには昔のなんでもない写真が詰まっていた。
最近はずっと私のことに付き合ってもらってばっかりだ。2人のためだけの写真は、ほぼない。
どこに出かけようにも「ちょっとそこいい画角だから素材撮っておきたい」「ここ記事にしないといけなくてさ」「付き合いでここ行かないとで」。
そう言っても「やっぱりくっとぅんを一番可愛く撮れるのは私だわ〜!」「くっとぅんのおかげでいろんなこと経験できて嬉しい!」と振る舞う姿を当たり前のように見ていた。
みのりは10日、私は11日が誕生日。昔は必ずどちらかの家に泊まって、2人で小さなケーキを買ってお祝いして、手紙を交換していた。それが当たり前だった。
21歳の誕生日を迎えた。
つくづく最低である。
誕生日の晩、みのりは私が出演する地上波番組を家族で見ていた。
誕生日の晩、私は1人カフェで大事でもないメール対応をしていた。
21歳の誕生日は、たった40分のカフェタイムで限定のコスメをプレゼントした。小さなコスメに目を輝かせ、何度も嬉しいとつぶやいていた。
みのりは相変わらず手紙を二枚、くれた。当たり前のように受け取った。
たった一枚、駅前で写真を撮って仕事に向かった。
みのりが泣いているとき、私は「鍵開けとくし来ていいよー」と伝え、泣いてるお前に少しの笑い話と、PCをいじりながら剃るのに失敗した眉毛を見せた。
昔なら「一緒に水風船しようぜ!」と手を引いて庭に連れて行っていた。
私が泣いているとき、みのりは「今家向かってる」とだけ言い、深夜2時に勝手に部屋まで上がって来て、なぜか私より泣いている顔でただ手を握ってくれていた。許可なく家に上がるのは、昔と変わらない。
一通りLINEを見終えたあたりで起きたみのりは、「あ!くっとぅんからもらったスタバチケット使うの忘れてた!」と、寝起きの顔で笑って見せた。
そういえば渡してたな、と思っていると、「どう?なんかいいLINEあった?何もなさそうだけどねえ、特に変わったこともないしなー」と、何も気にしない表情で言う。
明らかに私は変わってしまっているのに、いつもと何も変わらないものにしてくれているのは、紛れもなくみのりであることにたぶん君は気づいていない。
目の前でPCを開いて教育実習に使うプリントを作り始める。
君は君で進んでいながらも、此処にも居るのか、器用なやつめ。と少し羨ましさを感じる。
「ねぇ、このプリントの文章変かなー、意見の取捨選択についてなんだけどさ」と聞いてくるので、少し話し込むだけで「なんか受験期思い出すわ〜!」と懐かしむ。
それを見ていると、私は少し気にしすぎだったんじゃないかとさえ思える。
家に帰って宝物箱をひっくり返す。ごちゃっとした紙の山の中から、みのりの筆跡を探し出すと、初めて迎える誕生日の時の手紙、それと21歳の誕生日の手紙が出て来た。
みのりよ。晒すことを許してくれ。
“くっとぅんは私と違う場所で今すごく頑張っていると思うけど、変わらず私といてくれて嬉しいよ。
私は仕事のこととか全部はわかってあげられないけど、無条件に丸ごと応援してる。”
最初にこれを読んだ時とは全く別の嬉しさみたいなものが込み上げてくる。
無条件に人を応援すること、理解することがどれだけ覚悟のいることか。
8年前は夢を持っている私が好きと言っていたのに、今のひねくれた私を見て「そうさせた社会を恨む」とまで言えてしまうその人としての強さによく助けられているし、そう言わせてしまうほど、今の私はきっと気概のない人間になってしまったんだと思う。
でもきっと私が今後どれだけ変わってしまって、一切の希望を失ってしまっても、君は私の誕生日には決まって手紙を数枚綴ってくれるんだろう。
血も涙も枯れてしまうことがあっても、どうせ「え、私がいるじゃん」と当たり前に言って、また私の調子を狂わせるんだろう。
私が何も与えられえなくても、勝手に何か得ていくんだろう。それで「いつもありがとう」とかヘラヘラ笑うだろう。
「あの日のLINEってテーマで記事書くんだけどさ、みのりを題材にしたらどうせなんかネタあるだろうと思って」と言ってはいたものの、LINEを振り返ってみると「今の私」がどうにも変わってしまったという事実を見せつけられた。トーク画面にはいつかの私、それと、昔と変わらない1人の女の子がいた。きっとこれからどれだけのことが起ころうと、どれだけ私が腐ろうと、そこには「いつかの私」と「いつもの君」が残り続けるんだろう。
皮肉にもそのおかげでこの文章が書けている。
また助けられてしまった、ありがとうな。
突然の感謝の手紙になってしまったけど、今年の誕生日の手紙のお返しくらいはしたかった。やはり感謝の総量はある程度イーブンな関係であるべきだと、私は思うよ。
でも今はわかってくれている通り、手紙を数枚綴るような余裕を持ち合わせていない。申し訳ない。どこかいい言葉があったら借りたいくらいだ、と思っていたところに8年前のベタな言葉を見つけたので拝借するわ。
私のとなりにいてくれてありがとう。
長文になりましたが、これからもこんな私をどうぞ宜しくお願いします。
くっとぅんより
TEXT:くつざわさん PHOTO:くつざわさん