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構造主義/自分であるということ

初noteで、現在大学4回生の私が就活を「終えた」んじゃなくて「やめた」話を書こうと思ったのですが思ったより筆(タイプ?)が進まなかったので全く違うことを書くことにします(`・ω・´)


大学で、言語学者ソシュールについての講義を受けていたときのことです。構造主義という考え方を少し教えてもらいました。

すごく簡単に言うと、構造主義の考え方って反実体論で、物事はすべて「~でない」からしか決定されないらしい。

常にすべてのものは「そこに潜在する構造」によって説明・理解されなければならない。

例えばあの四つ足の動物のことを日本人は勝手に「犬」と呼ぶけれど、「いす」って呼んでもいいんじゃない?でもそうすると、同じ四つ足でも「あの座るやつ」と区別がつかなくなってややこしい。

それを区別するために、「犬」は「いす」ではなく「犬」と呼ばれるべき。

「モノや概念は言語と共に誕生し、それぞれの単語は全体の体系の中に置かれて初めて意味を持つ。ひとつの単語の意味する大きさや範囲はその単語を取り巻く他の単語によって決定される。」

ややこしく言いましたが、元からそこにものがあるのではなく、私たちが勝手に他のものと区別して名前をつける、その瞬間にモノまたは概念が認識される、とこのような解釈を私はしています。

構造主義について完全には理解できていないと思います。ただこの講義を終えて思ったことは、構造主義で考えるとものごとはすべて「~でない」からしか決定されない。ということは「里菜は陽奈じゃない」ってことでしか里菜じゃないのか、と少し寂しい気持ちになりました。里菜は里菜だけで、里菜でありたいなぁ…って思いました。




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