続けるということ

短くても毎日投稿しようと決めたのに、、、また3日坊主。というか3日も投稿できていない。なんで自分はいつもこうなんだと自己嫌悪。

昔から新しいことを始めるのは、フットワークが軽くすぐにできた。でも続けるということが難しい。

3日坊主になる原因はなんだろう。そう考えた時にADHDだからと言えば、それまでかもしれないけど、言い訳が欲しいんじゃなく続けたいと思う気持ちがあるからこそ、根本的な原因を知ってどうにかしたい。

振り返ってみると、小さい頃に習っていた習字は幼稚園から中学の終わりまで、ピアノは高校の終わりまで続いた。部活も中学高校と運動部に入部。人生の中で割と長く続いたのではないか。

好きかと言われると好きではないけれど、嫌いかと言われると嫌いではなかった。ただ、好きよりではあったのかな。しかし練習は大大嫌いだった。

ピアノに関しては行く日の数日前から30分程度の練習、ひどい時には当日の行く間際30分程度の練習のみだった。

それでも習字にもピアノにも通えていたのは、今思えば辞める理由がなかった。先生が好きだった。それに尽きるのかもしれない。

もしそれに付け加えるとすれば、習字に関しては、月一回先生から冊子が配布され、その冊子に自分の作品がどのレベルかがレベル別に記載されていた。レベルが上がると嬉しく、下がると悔しかった。それは間違いなくモチベーションになった。

ピアノにおいては、先生は、自分の住む田舎にはいない感じの、都会感溢れる外見で、綺麗さと優しさを持っていた。しかし凛とした怖さ?強さがある人だった。

今までの先生は若いこともあり、練習しなければ怒られる。怒られたくない一心で少しだけだが練習をしていく。

ただこの先生に限っては、練習をしなくても怒られない。あなたは才能があるから練習をすればもっと良くなるのに勿体ない。そう言われたかと思うと、ダメなところはひたすらやり直し。先生は飴とムチを上手く使いこなし、私に、怒られるという恐怖感ではなく、できない自分を恥ずかしく思わせる、惨めに感じさせる。そんな先生だった。綺麗で凛として強さを兼ね備えた先生。そんな先生が大好きだった。

今はなぜ昔よりももっと続けられないのだろう。社会人になり学生時代よりは自由時間はかなり減ったといえど、ないわけではない。

好きなことに出会えてないだけ?いや、習字やピアノが好きだったかと言えば、好きよりではあったけど即答はできない。

それが見つからないから長続きしないのか?何かを死ぬ気でで頑張ったり、続けたりしたことがないから、続けることの大切さが分からないのか?いや違う、続けることの大切さはテストを受けるたびに感じる。毎日少しずつこつこつやれば、結果に結びついたのに。次回はそうしよう!そう決めてできたことはほとんどない。

自分に甘いのか?これはそうなのだと思う。

あとは、ラインの返事にしても、このnoteにしても、話の返事にしても、こう言えば相手がどう思うかな。と常に考えてしまって、正解の返事をしなきゃと考えることで時間がえらくかかって億劫になる。

返したら、すぐ返ってくる。のやり取りが苦しい。

そこもあるのかもと感じた。

でも今日ADHDの方のブログを読んでいて気づいたことがある。返事はともかく、ブログに関しては自分がどう思うか。どう思われるのかではなく、自分はこう思う。(あくまでも自分の意見で、相手に合わす必要もなく、相手の同意も求める必要もない。あくまでも自分はこう思う。)を大切にすればよいと。

はっとした。

続けるために、相手に合わして、こうした方が読んでくれるかな?共感してくれるかな?と思うことがあった。(読者もいないのに笑)

そうではなく、あくまでも自分はどうなのか。こうなのだ。を発信することが、無理もなく、ありのままに、かつ続ける方法かもしれない。

と気づいたところで今日から実行しよう!



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