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独り言(2022/09/24 23:39~)

自分とはどういう人間でどういう人生を送るのかを模索する人間の独り言。ただそれくらいの何か。

まず第一に、制限時間がある。私は0:55までにこの文章を書き終えなければならない。もちろん、それを課しているのは自分自身なのだが。現在は23:41だ。明日、私には重要な予定がある。そのために、今日、今回ばかりはいつまでも悩みながら書き続けるわけにはいかない。時間制限ありの、文筆。さて、どうなるか。

まず、今私の気になっていることは、「神経症傾向(Neuroticism)」だろうか?私自身の。そして人の。まず、端的あるいは安直に言うなら、それによるデメリットが気になる。これは人の気にするところでもあるとインターネット検索で確認している。それを「治したい」とか「改善したい」と私は安易に言うことはできない。というのも、神経症傾向が治されるべき「悪」であるかのように言うべきではないと思うからだ。これは、あくまで、それを気にする当人が、生き方において苦しみを抱えている場合に、それのいくらかの変更を試みるくらいは良いという程度のものだと思う。

神経症傾向についてネットで検索すると、森田療法について書かれたページを見つける。端的に安易に言うなら、「あるがまま」を推奨する考え方をとる。少なくとも私はそう認識している。私の言葉で解釈するなら、「別にあなたに変えるべき悪いところはないんですよ。どうぞ普通にしていてください。完璧でなくともよいのですよ。あなたはそのまま、あるがままでよいのです。」となる。私はいくらか森田療法の考え方に関心を持ち続けているので、この解釈は大きくは間違っていないかとは思う。

この文章は特に何か目的というか野心とか何やらがあって書いているものではない。ただ、全く意味がないとか、目的がないと言ったらそれは偽りだ。少なくとも、自分の頭?あるいは何かを整理するために書いている。自分の納得感のために書いている。もちろん、私はそれでよいのです。不安になって、というか心細くなって寂しくなって、「私を愛してくれ。私を理解してくれ。」なんていう欲望が心の内にその言葉で形成されることがあるものです。それは持っていて当然よいものだと思っています。そのとき、というかこのとき、私は私自身を外から見ているのです。

私は、過去の私自身が書いてきたことの全てが少なくともおかしなものではなかったと言いたい。当然持っていてもよい感情について書いてきたのだと。そういう感情を抱いたとしても、それはおかしなことではないと思いたい。

例えば、この瞬間何か、ドーナッツか何かについて突然書きたくなったとしても、それは少々突飛で脈絡のないものではあるかもしれませんが、別にそれは悪しきものでもないのだと。……うーん。その気持ちは気持ちとして持っていてもよいかもしれませんが、場にそぐわないものかもしれませんね。

「場にそぐわない」と私が言うことの奇妙さが気になる。私はすでに、そして頻繁に「場にそぐわない」人間になっているような気がするのです。自分で自分の奇妙さが気になるし、それをやめることができるというわけでもないようなのです。

しかし、私はその「無自覚さ」に何か変えるべき何かを見てしまうのです。この時点で、私は自己肯定も自己否定もわからないような謎の境地、迷宮に入ってしまっているような心地がする。つまりは、「何の話だ、これ?」というわけです。すでに神経症傾向の負の側面である、人を息苦しくさせるような作用に飲み込まれているかのようなのです。その認識が妥当であるかにかかわらず、そう思ってしまうのです。

もちろん、そこから「私がどうするか?」を考え実行するのでなければ、ただ自分の思いたいように思って自分を納得させて終わりでしょう。……あれ?それでよくない?

納得できたなら良かったじゃないか。あれ?

えと、これって何の話だったかな。

それはさておき、私の気になることのもう一点は、私がエニアグラム・タイプ4であることについてだ。その観点があることによって、私は自分が思う以上に自分自身が「嫉妬のモンスター」であることに気づいたのです。さらには、自分の苦しみや弱さを提示することで人の注意を引こうとする性質にも。そういった性質のほとんどは無意識でやっていることなので自分でも気づかないことなのです。

モンスターといえば、私の中の怪物、「化け物」について。黒いドロドロの執着心。衝動。私はそれに美しさを見ている。私の本能、衝動。尊い生命力。でも、それって健康的じゃないんだ。私を破壊するような恐ろしいものでもある。全てがそこから始まっていくような根源であり、全てがそこで終わっていくような終点でもある。

ここで、思わぬ収穫があった。私がそれを「化け物」であると特定したことで、それにますます愛着が湧いた。ここにおいてちょっと私が関心を持っているのは、「それ」という表現だ。フロイトの概念「エス(イド)」はまさに日本語の「それ」だ。本能的、衝動的な「それ」。興味深いつながりを見出した。「それ」は私にとっては「化け物」だ。

最後に、私が関心を持っていることをまた一つ挙げるなら、「現実的に生きるということ」だ。幻想を見ていた自分に気づき、現実的に生き直すということ。それは簡単に納得のいくものではない。泣く泣く諦めるような何かだろうか。苦々しく堪えるような何かだろうか。そこに大いなる夢があったんだぞ!崇高な何かがあったんだぞ!大切な大切な未来があったんだ。だから、それを簡単に「諦める」ということはしがたい。納得感がない。これについての私の個人的な具体例はまた今度書こうかな。ちなみにそれはセクシャルなものだ。性的な願望、人を好きになるということ。

私は幻想を見てはいられないようになりつつあるのです。好きな人に対する幻想。現実は私の頭の中にはないのです。好きな人に対して持つ、何か理想的なイメージは基本的に私の頭の中のみにおいて展開し、それは現実のものではないのです。ですから、私が大切に大切に、熱心に熱心に作り上げた、好きな人との理想的な関係は、その点において見る影もなく崩れ去ってしまうのです。それは受け入れがたいものです。しかし、現実的に生きるということをするならば、それはいずれ受け入れることになるものだと思うのです。

現実は私が理想的に想定するものとは異なったかたちで展開していくことになるのだと、私は覚悟していくことになりそうです。

その満たされなさを私はどうするのでしょうね。時々、頭の中に幻想を作り出して、私は夢に狂わなければならないかもしれません。そうでなければ、満たされなさに押し潰されてしまうような気がする。

そういう私の満たされなさ、つまりは欲望は、根本的に一言で表すなら「余すところなく愛されたい」なのかもしれません。全てが満たされるような境地。しかし、それが現実的に可能であったのは、赤子と母の一体感においてのみだと言えるか。ここらへんは、精神分析の話だな。ちょっと本を読んで自分に引きつけて考えたくらいの理解なので、もうちょっと勉強したいと思っている。結局、本を読んでも、自分がどうやって生きるかは自分で考える必要があるし、自分で決める必要がある。自分で決めないかぎり、自分は救われないような気がする。――ところで何だい?その「救われる」ってのは?どういう状況になったら私は「救われる」のか?良い気分で過ごしているときは、それがあってもなくてもどっちでもいいんじゃないか?つまりは、「ただ良い気分でいられたらいいな」というだけのことかもしれない。良い気分で過ごすとか、生き生きと過ごすことをやれたら、それが解決するんじゃないかって。

私は「嘆きの亡霊」みたいになるのが無意識レベルで好きであるようなのだと言わざるをえない。あえて、精神を病んだような状態のままにするところがある。まるで、それこそが人生の深みとでも言うかのように。エニアグラム・タイプ4の健全度の低い人にいくらかこの傾向があるようですね。

どうやったら私は毎日を気分よく過ごせるのか、模索中です。見つけた方法論を、どのようにして私に適用するのかについても。

時間を35分オーバーしてしまった。これが人生の苦しみか(笑)。それとも、「早く寝るぞ」か。

今回のトップ画像↓
Susan Wilkinsonによる写真: https://www.pexels.com/ja-jp/photo/12169529/

私の心に住む「化け物」というイメージに沿う、美しい抽象画だと感じます。

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