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HSS型HSP、マイノリティを知る

言葉の意味が繊細で「」がやたら多い

HSS型HSP、マイノリティを知る

 LGBTだのADHDだの、英語大文字の特性が周知され始めてしばらく経った。そういった「多様性」のための括りは、これまで社会に見えていなかっただけで、ずっと存在した「個人差」を明確化するものだ。
その「個人差」は一般に先天的なものを指し、後天的で揺らぎやすい性質を埒外に置く。
 私はLGBTについて、「人間は生殖のためでなく外見や内面に惹かれて恋愛をするので、最初から恋愛に性は関係なく、だからLGBTは意味ない」と言っていた。
 それに比べてADHDは「精神障害」であり、国から補助金が出る。目に見えないものをテストで診断するのもそうだが、まず当事者周辺が障害を疑わねばならず、またその審査は厳正に行われる。
 「多様性」のグループにはそのグループに属すか否かを証明するプロセスがつきもので、その「許可証」がなければ「マイノリティ」にすらなれない。マイノリティに属さない社会にとって、医学的・科学的な証拠がないまま特別な配慮をすることに納得できない風潮が出来つつある。
 多様性グループの大量生産、医療の発展、インターネットの普及。
 私たちは流行を追い、鏡を見て、自分の考え方や人生が世間とズレていないかを鋭く観察する社会性動物である。その中で1つの指標を得るために哲学書を漁るのが従来なら、現代では多様性グループの診断を当たる方が手っ取り早い。よって、いっそマイノリティになって安心したい層が出現し、許可証を持たないまま配慮を求める者への社会的危惧も発生する。

しかし問いたい。我々は属するグループの前に1人1人違う。日本国籍だって同じ人格の証明にはならないし、精神障害にも重さや症状の差がある。細かくマイノリティを分けたら、私たち最小単位に行き着くのだ。
DNA鑑定で陽性が出た者でも支障がなかったり、陰性でもそのマイノリティに類似した症状で苦しんでいたりするだろう。その場合「証明書」の存在が逆に不利益を生むことになる。

この「先天性/後天性」が不明瞭かつ、証明書を持たないマイノリティに、社会はどう向き合えば良いのだろうか?

突然だが、私は「HSS型HSP」である。セルフ診断だ。
訳すと「とっても繊細人間、好奇心バージョン」であり、「とっても繊細人間」かどうかを診断する科学的手法はまだないため、医師に頼ったところで結局はセルフ診断になる。だから言ってしまえば胡散臭いし、配慮を求めるのも気が引けて出来ない。
 しかし、自分と同じ特徴を持つ集団があると知って、まず安心した。自分にとっての生きづらいあるあるが上から下までぎっしり並んでいる支援HPを見て、ずっと笑った。
 当然、誕生日占いのように、誰にでも当てはまることが書いてある可能性もあるし、自分が外交的か内向的かなんて分からない。もしかしたら「自分と似た特徴を持っている別の人たち」の運営するサイトで、もし科学的な診断が出来たとき、大きな壁が築かれてしまうかも知れない。
 数年前LGBTをDNA診断にしようとして発表を拒まれた博士が頭によぎる。そのニュースを見て私が思ったのは、「幹部とかにLGBTじゃないという結果が出たらコミュニティーが分裂するからだろうな」だった。

 そうではない、と自分がその立場になってやっと思った。先天性や後天性に関わらず、マイノリティのグループとは、生きづらさを持つ者のグループである。医療の関わる障害と違い、グループに入るための証明書は「この傾向の生きづらさを感じているかどうか」だ。むしろ、診断で陰性でも、それが一過性であるとしても、自分がそうだと思ったらマイノリティだ。多様性のグループとは、今持っている生きづらさを解消する手段として、医学や科学とは別に、より柔軟に機能する民間の団体であるべきだと考える。
 私は人と話すのが好きだ。それはHSPの特徴に含まれないから、そう入力したセルフ診断では否定的要素になっただろう。でも人と話したいのは疎外されないため、これからの人生でより強くなるためであり、人と話すことそれ自体がこれといって好きなわけではない。黙ってくれと言われたら、当たり前だがそっちの方が何もしなくていいから楽だ。「自分は〇〇だと思っていたけどこの診断で新しく気付けました!」は認知バイアスだと思っていたが、確かに自分は人と話すよりもお互い黙っていて心地良い方が好きで、相手が無言の時間を好まないと想定して気を遣う場合にのみ、喋っている方が落ち着くのだと気付いた。
 こうでなければ!と努力して創り上げた第二の自分に落ち着けず、だからといって第一の自分も色褪せて分からなくなっている場合、本心に気付きさえすれば自分自身の扱い方を得られて便利になる。社会に出る以上被らねばならない第二の自分を二重人格ではなく「化粧」として認識できれば、必要以上に疲れない、仕事や友人と上手くやっていく計画を立てることも出来る。
 このとき、社会と私たちには、多様性社会以前の強制ではない「思いやり」によるやり取りを取り戻し、無理に第一人格に介入しないことが求められる。なぜなら、マイノリティグループは化粧をして社会に馴染むための気軽な便利道具であり、その化粧を剥ぎ取ることは失礼で無責任だからだ。

普通の人間であると言いつつ時々疑って怖くなりながら、人と同じになるために違いを測る基準すら掴めない、マジョリティワナビーの皆様は、何も恥ずかしがることなく「生きづらさを和らげる選択肢のひとつ」として気軽に自分っぽいマイノリティグループ診断を当たってみてはどうだろうか。誰にも迷惑はかけないはずだ。

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