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妄想昭和歌謡 わ「私のいい人」内藤やす子

昭和52年 歌 内藤やす子 作詞 阿木耀子 作曲 宇崎竜童

ここでいう「いいひと」というのは、良い人でもなく善い人でもなく好い人だ。「好い男(ひと)」と書いてもいい。
恋人という意味で、好きな人にも使われたが、平成以後あまり聞かない気がする。
女性の側から出る言葉のようだ。男性側からだといい人ではなく、他人からの場合「いい娘(こ)」で、本人からの場合だと「(僕の)あの娘」に相当するだろう。でも娘という字が連想させるように、どうしても若者同士的意味合いがあるので、既婚者だったりして年齢高めの「いい人」の男言葉と対にするのは、ちょっと違う。

今、いい人と聞くと「いい人なんだけどね」という時に使われる、対象外という意味合いが強いかも。好きな異性からいい人呼ばわりされているのを知り、「悪い人じゃないんだ〜 だったら可能性大きいからこのままぐいぐい行っちゃえ〜」と思う人は失敗するだろう。

「うそ」の中で 誰かいい人できたのね と心変わりを推測され、「よせばいいのに」で 私の他にいい人いたなんて と実は自分が本命どころか浮気相手の方だと分かったような、今ならクズ男でも、女性にとって想い人であれば「いい人」だった。良い ではなく 好い 人だからだ。
ちなみに 良い というのは中国語では 好 だから、中国語で言う「好人」はやっぱり良い人になってしまう。
大空真弓が昭和のドラマの中で周囲のおせっかいな人に「いい人でもできたの?」と聞かれてハッとして胸にそっと手を当てているような場面が目に浮かぶ。

この歌の中は、「歌い手内藤やす子=歌詞の主人公」 に思える度合いは強い。
で、本人だとしたら、一人称の私はあたしと発音されるべきだ。もっと言えば本当はあたいであってほしいかも。なぜならズベ公だからだ。イメージとして元ズベ公を体現。


何しろ強烈なアフロに近いカーリーヘアだった。
初期のレコードジャケットでは背景も服装も黒っぽい上、黒いカーリーヘアの占める面積が広いから、余計黒っぽい。
一見相当すさんでいそうな外見と、酒やタバコを連想させる野太いハスキーな声。
内藤やす子は歌と本人のイメージの乖離がほぼない歌手だ。


乖離がないなら本人であると決めつけてみる。

デビュー曲の「」では悪くなっていく弟を心配しているのだが、姉の方の状況がチラつく歌だ。姉は、“高卒で中小企業の事務職として働き早6年、地道にやってきました”という当時一般的な一人暮らし24歳の弟思いの姉、という感じはなく、高校は中退し水商売もしくはグレーゾーンの金の出入りをうかがわせる外見だ。歌詞の中でも「夢がないから恋をして」、破局して、それから恋をした男以外とも色々あった女だとうかがえる。
一人暮らしのアパートには同じような境遇の男が出入りしているに違いない。
自分も通ってきた道だけど弟の様子は気になる。
いつも人肌があるから薄い毛布だけだけど、たまたま一人の夜は肌寒く、つい自分の身の上と共に伝え聞く離れて暮らす弟について思いを馳せている。
そんな感じ。

今改めて歌詞を読むと、一つ違いの弟とあった。
そうだったか。
何となく中高校生がグレ出しているのを想像していたが、状況が変わってくる。
昭和の、それもロウワー社会は早熟だから、一つ下だと20代にはなっていて、悪くなると言っても既に相当のところにきている可能性があったのだ。
その頃不良化していた人の多くは、中学生で既に相当悪くなって、高校は中退もしくは停学とかあったとしても、20代となれば早めに所帯を持ったり仕事を見つけたりして落ち着く、またはそれが短期間で離婚とか離職とかになろうともいったん落ち着いたように見える人が多かった。20歳過ぎて悪くなり続けるというなら、既に組織に入っていたり、かなりヤバいところまでいってそう。逮捕も視野に入っていそう。おお怖い。
でもだからこそこの凄みのある歌のうまさが新人としては 殿堂入りレベルだ。
レーコードの音源ではなく歌番組で歌っている動画出聞くとめちゃめちゃうまい。

想い出ぼろぼろ」は、一見強そうでいて、惚れた弱味で今の関係を繕おうとする、切ない女の心の歌だ。
一番でぼろぼろとこぼれそうなのは幸せで、二番が涙で、三番が曲名の想い出、という三段構えの素晴らしい作詞は阿木耀子。曲は宇崎竜童。
それにしてもアニメ映画にもなった「想ひでぽろぽろ」はなぜこんなに題名が似ているのだろう。似ても似つかないのに、何らかのインスパイアがあったのか?

で、「私のいい人」だ。

これも阿木燿子宇崎竜童コンビ。
やっぱりすごい。いい人、という当時でもちょっと古めの言葉で呟かれる男はきっと年下だ。そして呟く女は水商売かな。愛しているけどそれが続くとは無邪気に信じられない年齢と経験を感じさせる。これをそうと言わず匂わせるのもすごい。
一番では 「あなたは男 男 男 男」で終わり、二番は 「私は女 女 女 女」そして三番は「二人は男 男 女 女」というのもまたうまい。
このレコードジャケットの頃にはカーリーヘアが更に短くなってもはや清水健太郎がカットをサボったくらいになっている。いわゆるパンチパーマのちょっとゆるいやつ。男とも女ともとれるスタイル歌の「男 女」と歌う三番を表しているのか?
なわけない。

想い人という意味でのいい人という言葉は恋愛の相手として昭和で男女共に使われるけど、何となくどこかで公平な感じがしないのだ。
公明正大、何の障害もない男女が互いに相思相愛という図式ではなく、片思いだったり不倫だったりちょっとイーブンさには欠ける。というか当事者二人以外に登場人物がいそうな気がする。ついでに言えばその第三者の登場人物は着物を着る機会が多そうな気がする。小料理屋とか和風スナックとか。でも背後にフネさんはいるがサザエさんとマスオさんにはちょっと当てはまらないから、「着物を着ている人が近い関係者にいるから相手を『いい人』と呼びがち」という逆は通用しない。
ちょっと前に大人だった人達の考える男女の仲だ。
まああまりに障害もないいいことだけの恋愛は歌謡曲の歌詞にはなりにくいのだろうが。切なさとか不安とか別れの予感とかが混じってこそ詞になろうというものだし。

その後の内藤やす子の露出は大麻取締法違反でいったん断ち切られる。
なんか井上陽水、研ナオコ、美川憲一、ジョー山中、と歌が滅法うまい人が続けて逮捕される。歌うま同士ではっぱ同盟でも組んでたのだろうか。

今になって内藤やす子のプロフィールを読むと、身長155cmとあって驚く。大柄なイメージがあった。存在感が大きかったのだろう。


改めて写真を見ていたら、なぜだか彼女歌声ではなく世良公則の声で

「燃えろ いい女」

が頭にこだまする。世良公則も野太いパワフルボイスだが、どう考えても別人だ。
これはどういうことか全くわからなかったが、検索するとすぐに合点がいった。

似てるのだ。

資生堂夏のキャンペーン 小野みゆき
内藤やす子

こんなに似てるのに70年代ズベ公が80年代は憧れの翔んでる女だ。
赤い服だと尚更見分けがつかない。
上は79年資生堂キャンペーンガールの、小野みゆきさん。
下のベストアルバムは2007年発売だけど、多分写真は77年のシングル「ターゲット」と同じ服の写真だからその頃。
美人じゃん。

導き出せることは、大麻での謹慎から復帰作が、キャンペーンガール、歌を内藤やす子が一人で兼ねても表面上は支障なかったのではないか? ということだ。
彼女なら歌いこなしたに違いない。
いい女として燃えたに違いない。

だったら作詞作曲した世良公則の立場はどうなるか?なのだが。

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