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第1回 れもん

 はじめまして。文章をちょっと書くのがすきな人間です。自分のなかで課題をつくって文章を書いてみよう、と思いました。第1回として題材は「れもん」です。今年の夏は、やたら炭酸飲料が飲みたくなった夏で、サイダーを買ったり、あとはレモンの炭酸飲料も好んで飲んでいました。自販機で買って、その前で冷たい缶ジュースを飲み干したのはとてもいい夏だったな、と思ったので選びました。

 それでは、お楽しみください。小説、れもんです。


 つやつやとした皮に色は淡い黄色。レモン。存在がどこか夢のように浮いているレモンだった。
 薄暗い店内の照明。私はイスの背もたれに寄りかかって振り返り、店内と同じくらいの夜を窓越しに眺めた。片側二車線の大通りなのだが、走っている車は一台、走り去ってはもう一台というくらいだ。信号の光は点々としているのに、あかあかと光っている。画家のE・ホッパーが描いた絵みたいに、寂しいのだけれど明るさを胸に灯すような景色だった。
 音楽仲間とこの店で集まる約束をしている。まだ全員が集まっていなくて、席についている仲間たちは私を含めて4人ほどで、いくつかの席を空けて座っている。みな、自分の前のテーブルのスペースで楽器を奏でている。頭のなかで。鍵盤をおさえる指は、奏でられる和音の鍵盤を正しい間隔でおさえ、ウッドベースの弦をはじく指は空気を揺らす。
 フロントがいない。そうだ、フロントがいないのだ。本当はいるのだが、私だ。私の目の前にはアルトサックスが置かれていた。ホーンがどっしりと曲線を描いていて、それは水揚げされた腹の大きな魚が横たわっているようだった。音も動きもなく、アルトサックスの上にはしんしんと雪が降り積もっていた。
「なあ」
 私は仲間に問いかけ、持っていたマイクを腕を伸ばしてテーブルの向こうの仲間に向ける。仲間はマイクをじっと見つめ、それから目を閉じて首を横にふった。
「ちがうんだよ」
 当時の私なら何がちがうんだよ、と問いただすだろうが、私はゆっくりとマイクを置いた。仲間はうつむいてマイクを見、そして私の顔を1秒にも満たない時間で見やって、それから前を向いた。仲間は口を開き、声帯を震わせながら、ただ空気を震わすことはなく無音の歌をうたう。胸に手を当てて、空気でからだを膨らましては縮め、表情は遠い誰かを思うようにうたっていた。
 私はアルトサックスに積もった雪をはらう。薄い層となって積もっているが、よく見ればひとつひとつの粒としての雪があり、その尖端は光っている。その上に私は右の手のひらを置いて滑らす。小指側の手のひらにはらわれた雪がうずたかく積もっていき、手のひらが通り過ぎた後にはアルトサックスの胴があらわれる。
 アルトサックスを持ち上げた。横になっていたものを、もとの演奏する場所まで立ち上がらせる。その過程で少量の雪がこぼれおち、そして私が一度振ると雪は一斉にはがれテーブルの上で山となった。金属に対して雪による冷たさが加わったからか、布で磨いた時よりも輝いて見えた。
 アルトサックスに映った自分の顔を見て私は問う。
(なあ、あんた。本当は演奏なんてしたくないんだろう)
 口を一文字に結んでじっと見つめながら黒髪の女は言う。
(お前には、奏でたいという音楽がない。他のやつらにはあってお前にはない)
 女の顔が瞬間、ゆがむ。
(お前は、お前のことを諦めている)
 私は、このアルトサックスをテーブルに打ちつけて壊したい衝動に駆られた。それを引き留めたのは、私はこのアルトサックスを磨いてきた時間だった。ケースにしまう前に、他の誰よりも丁寧に磨いてきたのを私はかろうじて記憶の底から引き上げることができた。アルトサックスは強い力で握られ微動する程度におさまった。
 私は、内側からの激しい拍動をなんとかなだめようと息を整えて目を閉じる。そして両手を添えてアルトサックスをもう一度テーブルの上に横たわらせる。そっと目を開くと、私の目の前にはレモンが置かれてあった。
 「え」と私の口から言葉がこぼれる。小さく中心からの距離が等しい円形で、白くて平たい皿の上にレモンがそのままの形でひとつある。いつの間に、誰が、と思って見渡すと、席についていた仲間たちがみんな私のほうを見ていた。鍵盤に指をのせたまま、ウッドベースの弦をはじきおわった指を止め、口をわずかに開き胸に手を添えて、仲間たちはみな動きを止めて、その視線は私に注がれていた。
 この空気が分かっていれば、私も音楽を奏でられたかもしれない。すでに死んでしまった輝くアルトサックスを私は見る。この時間はきっと私のなかで何度も繰り返す。そう思って、アルトサックスを見ていた。そして、私はレモンへと視線をうつした。
 天井から吊り下げられた一本の照明があった。白熱電球を囲うようにひしゃげた四角形の枠が二つ、そこに立体の空間を生み出していた。光はレモンを真上から照らし、テーブルを均等に円を描くように照らして、そして徐々に薄れて光は消えていく。私はレモンを手に取った。
 ひやりと冷たく、表面には目には見えない微細な凹凸があり、親指の腹で辿るように確かめ、いくつも越えていく。香りがあるとしたら、それは爪を立てて皮を割き、無数にあるうちの水分を含んだ小さな粒をつぶし、無色透明のしぶきは空気中に漂いなじみ、そして香りとなる。
 私はレモンを握りながら目を開く。レモンは眠っていた。私の手のなかになじんで落ち着いて呼吸をしてからだを一定のリズムで伸び縮みさせながら眠っていた。私はレモンを手でやさしくくるんでやる。その時に私は思った。私はこのレモンを持って文字を連ねるのだろう。レモンは私ではなく、レモンを通して書いた文字は私のようであるけれどやはりそれは私ではなくレモンで、文字を書いている私も私ではないのだ。文字を書いているあいだ、私は私を実在するものとして認識することができない。私は存在しない。ただ、それでいいのだと私は思った。私はそれをやるのだと思った。
 顔をあげると照明がまぶしい。仲間たちは私を見つめていた。そして、うつむいた。ウッドベースの弦が一本はじかれる。ピアノの鍵盤のうえをつま先で走るように小さなメロディが奏でられる。沈黙のあと、深く空気を吸う呼吸の音が聞こえる。この空気が分かっていれば、知りたいと本当に思えば、私も音楽を奏でられる。仲間とともに音楽を奏でることができる。私は手のなかにあるレモンを握った。このレモンを文字にする。
 店に音楽仲間が集まってくる。イスを引く音がする。席につく。私は目を閉じてレモンを握っている。

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