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赤い鳥の「美しい星」を聴いてみてほしい

4月の外出自粛の時期、ふと、聴きたくなった一曲が赤い鳥の「窓に明りがともる時」。そして、その曲が収められたアルバム『美しい星』を何度も繰り返し、聴いています。

はじめに
1.赤い鳥について
2.アルバム「美しい星」
3.洋楽との距離感・アルファレコードの音楽
4.あとからわかることと影響
まとめ

「赤い鳥」というグループをご存じでしょうか?
小学校の合唱などで歌った「翼をください」といえば、ぼくと同世代(1970年代生まれ)かそれ以上の人たちには確実に伝わります。国民的ソングのひとつ、といえるでしょう。

●赤い鳥について
赤い鳥は1969年、村井邦彦のプロデュースによって、世に出たコーラスグループで、「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に出場、フォーク部門グランプリになります。この大会ではのちのオフコース(小田和正・鈴木康博)やチューリップ(財津和夫)が参加していたことでも知られています。1974年に解散するまでに、レコードを数枚、シングルでもヒット曲「翼をください」「竹田の子守唄」などを発表しています。

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解散・分裂後には「紙ふうせん」と「ハイ・ファイ・セット」の二つのグループに分かれます。それぞれにヒット曲もありますね。

Spotifyで、プレイリストを作成しました。イメージされがちなフォーク調の曲ではなくて、ソフトロックと呼べそうな楽曲を中心にセレクトしています。


コロナ過における外出自粛の嵐が地方にでも伝播したころ、ふと、20数年ぶりに聴きたくなったのがこの曲でした「美しい星」そして、「窓に明りがともる時」。

たそがれ街にせまれば
あかりがともるよ窓に
今日という日を 生きて来たの
だれもが生きたの
誰でも生きてゆく時
いくたび あかりをともして
一つだけのこの人生
送るのよ誰でも
(作詞:山上路夫)


ボーカル・山本潤子さんの、透き通った、ビブラートの少ない、うつくしい稀有な唄声が素晴らしい。

それから、ゆったりとしたBPM、沈むこむようなベースと、ストリングス、コーラスと徐々に音の厚みが増していき、ふっと終わる。

作曲は村井邦彦(1945年〜)、作詞は山上路夫(1936年〜)です。
このお二人は60〜70年代を通じてよくコンビを組み、「虹と雪のバラード」など多くのヒット曲を量産しています。そして、ぼくはこれらの楽曲群は「世界に通用する音楽」なのではないか、と密かに思っています。

●アルバム「美しい星」
赤い鳥は、民謡・コーラス・ロック・シティポップ調など多様な趣向が混在するグループだった。そのため、のちに分裂してしまうのですが、このアルバムでは、先述の村井&山上コンビが多くの楽曲を手掛けていることもあり、絶妙なバランスで成立しています。
他のアルバムでは、もっとフォーク・民謡色が強かったり、あるいは洋楽カバー曲が多数を占めるなどアルバムごとに色調が異なっています。

「美しい星」は73年のアルバムですが、発表から約50年後の今日、こうして聴いてみると当時の日本の音楽で、これほど洗練された表現があったこと、洋楽との距離をさほど感じないことに驚きます。

むしろ様々な曲調の混在と調和が、新鮮だったりします。

洋楽との距離感・アルファレコードの音楽
上のspotifyでのリストをBGMとして流してみてほしいのですが、狭っ苦しくて湿っぽい日本情緒溢れるフォークソングではなくて、60年代の映画音楽やポップス等で活躍した、ミシェル・ルグランや、バート・バカラックのテイストをふんだんに感じられます。重くないボーカルも加わって、カーペンターズにも通じる世界感です。

作曲家・プロデューサーである村井邦彦がキーマンなのですが、彼が作った日本初の音楽出版社である「アルファレコード」は、その後「荒井由美=ユーミン」を見出し、80年代には細野晴臣・坂本龍一・高橋幸宏によるイエーローマジックオーケストラ「YMO」によるワールドツアーを成功させます。

その村井が尊敬してやまない音楽家がミシェル・ルグランです。

近年、村井邦彦自身による半自叙伝「村井邦彦のLA日記」や、伝記本「アルファの伝説/音楽家 村井邦彦の時代」も出版されており、そのルグランとの交流や、「赤い鳥」のエピソードなども収録されています。

●(個人的な)窓に明りがともる時/あとからわかる影響
高校2年の頃、先輩との関係がストレスになっていしまい、ぼくは部活をボイコットするようになっていた。放課後の部活動には向かわず、そのまま電車にのり、40分ほどで行ける近くの都市「松本」の街に通うようになった。
(実は、朝のHRにも出られなくなり、出られる授業にだけはなんとか出る、という状況になるのだが、、、暗黒時代ですw)

松本には「中古レコード店」があって、CDやレコードが、高校生の小遣い程度でも購入できた。そこで、ドロップアウトしてしまった気分のぼくは、ソウルミュージックやJAZZ・フュージョン、日本のロック&フォークと出会い、深みにはまっていく。

となるかというと、(まだ)そうではなく、1994年の地方の少年にはインターネットなんてもちろん無いし、どんな雑誌を買って、どんな音楽を買い求めたらよいかの指針はなーんにもなかった。

買い求めたレコードは「単純に安かった」。

CDよりも、さらに安価に購入できるものとして、「チック・コリア/リターン・トゥ・フォーエバー」「シャカタク」「オフコース/ワインの匂い」「GARO」など、ジャケットのアートワークの雰囲気から判断して購入したお安い中古レコードのなかに「赤い鳥/美しい星」が混じっていた。初期のオフコース・GARO・赤い鳥には不思議なことに「コーラスワークが綺麗」という共通項があるのですが、いわゆるソフトロックは当時はあまり人気がなかったのかもしれません(いまもか)。

そのうちに(高校には内緒で)アルバイトをするようになり、急激な円高も手伝って輸入版CDの価格がぐっと安くなり(1000円以下だった)、あれもこれも、という感じで、本当にたくさんのCDを購入できるようになります。Rockin'on JAPANやCUTなどの雑誌を買い始めるのもその頃で、「情報」過多の時代を迎えます。

この「美しい星」を聴くと、1994年、ひとり松本の裏通りを散策していた頃のなにやら足踏みしていた自分の姿が思い出されます。その後、いつまでも問題から逃げてもいられないので、結局友人のTに連れられて、頭を下げて、許され、部活に戻ることになります(ありがとう、T)。

いろんな音楽がありますが、好んで聴くルグランやバカラックらの60〜70年代に一斉を風靡した音楽は、あんなに軽快で楽しげなのに、なぜか「ひとりで聴く」という状況が合うのです。多感な時期に出会った「赤い鳥」の音楽が、その後の好みを、案外規定していたのかも、と察するこの数ヶ月です。



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