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竹内結子さん、三浦春馬さんの死に思う~無意識内の呪縛

最近、日本中を騒がせた二人の人気俳優、三浦春馬さんと竹内結子さんの死は、いまだに多くの疑問を残したまま、私たちの心に暗い影を落としている。
芸能界という、一見煌びやかだが内面に闇を抱えた世界で、繊細過ぎる神経の持ち主は、多くの傷を受けたのではないかという見方もあるが、一体何が自殺の真のトリガーとなったのかは未だに不明であり、様々な憶測が飛び交うばかりだ。
周囲の人が見ても、何が故人らをそんなに苦しめていたのか、皆目見当がつかない。
はっきりした自殺理由となるものを探そうとしても、謎のままだ。
つまり、真相は本人にしかわからないままに、旅立っていってしまったのである。

故三浦春馬さんの死後、それまで彼のことをあまり知らなかった私も、食い入るように彼の出演作品や映像を見ていた時期があった。
特に目を引いたのは、2016年と2019年に彼が主演を果たしたミュージカル「キンキーブーツ」である。
眩いほどの美女に扮した三浦春馬さんの役どころは、父親との関係で傷を背負ったドラァグクイーン、ローラであった。
もう一人の主役チャーリー(小池撤平)が、父から引き継いだ倒産寸前の靴工場を、力を合わせて見事再建する、と言うあらすじであるが、実はこの物語は、父親からの自立とアイデンティティーの確立、というもう一つの主題を含んでいる。
三浦春馬さんが、この役をぜひやってみたい、と意気込んでいたというのも、うなずける気がする。

両親の離婚・再婚で居場所を失う

小学校の頃、両親の離婚を通して、父親と離れた三浦さんは、まもなく母親の再婚によって継父との三人暮らしとなる。
その頃既に天才子役として順調にスターへの階段を駆け上っていった三浦さんであったが、親子関係は悪化の一途を辿っていったと言われる。
一人っ子で反抗期もなかった彼は、それなりに母親や継父とも良好な関係を保っていたようだ。
しかし、そんな彼が死の3,4年前に、突然「母親と絶縁した」と知人に漏らしたという。
親子の断絶の背景には、母親が経済的に三浦さんに依存していた理由が大きいとされているが、それ以上の奥深い問題が横たわっているように思える。

一方の竹内結子さんにおいては、やはり両親の離婚を経験している。
典型的な昭和の厳しい父親に育てられ、言うことを聞かないとよく殴られていた、という。
祖母の愛に支えられて明るく育ったが、中学生になると母親が突然ガンにおかされ、子供たちが必死に看病する日が続いた。
そんな中、更なる悲劇が家族を襲う。
両親が離婚したのだ。
父親はその後も母親と同居していたものの、まもなく母親が亡くなった。
竹内さんが14歳の時だった。

ところがその翌年、父親が三人の息子を連れた女性と再婚したのだ。
知人の話によると、竹内さんは次第に家庭に居場所を失い、家に寄り付かなくなった。
同時期にスカウトされて始めた芸能界の仕事と、祖母の存在だけが、彼女の心の拠り所となっていったようだ。
そんな彼女は、自分の本当の気持ちを父親に打ち明けることはなく、継母を「父が必要とした女の人」、父親の連れ子である自分を「荷物」であると感じたと表現している。
父親が一人の男として、幸せを追求することを応援したいと思う一方で、彼女の中で疎外感は膨らんでいった。

無意識に潜む禁止令の呪縛

三浦春馬さんと竹内結子さんの育った家庭環境の中から見えてくるものは、親に甘えるべき時に、無条件に甘えることができなかった、ということだ。
心理学の交流分析では、「禁止令」というものがある。
禁止令は、無条件に愛される経験の欠如によって形成される、心の中の縛りのようなものだ。
代表的なものをあげると、「存在するな」「重要であるな」「子供らしくあるな」「感情を表すな」などがある。

これらの禁止令の呪縛から逃れるために、身につけざるを得ないのが「拮抗禁止令」と呼ばれるものである。
拮抗禁止令は5つのドライバーとも呼ばれ、次のようなものがある。

①他人を喜ばせろ(自分の要求を後にせよ)
②努力せよ(満足するな、楽しむな)
③急げ(自由であるな)
④強くあれ(感情を表にだすな)
⑤完全であれ(ありのままであるな)

つまり、この条件を満たしている限りは、禁止令に引っ掛からない、という一種の「御守り」のようなものだ。
そのため、心の中に禁止令の多い人ほど、5つのドライバーを必死で満たさなければならない。

5つのドライバーは、一見するとどれも「良いこと」に見える。
他人を喜ばせないよりは、喜ばせた方が良いに決まっている。
ただし、健康な人は自分が他人を喜ばせていない時も、そんな自分を受け容れることができるが、禁止令に縛られた人は、「他人を喜ばせていない時の自分は、存在価値がない」と感じてしまう。
そのため、自分のことを後回しにして他人を喜ばせることに徹し続ける。
当然の結果として、自己の消耗をもたらし、疲弊してしまうのだ。

二番目の「努力せよ」についても同じことだ。
人一倍努力しても、満足感がない。まだまだ足りない気がする。心から楽しむことができない。
努力していない自分は価値がなく、そんな自分は禁止令の呪縛に打ち勝つことができない。
子どもは禁止令によって様々なことを否定されても、5つの拮抗禁止令を守っている限り、存在を許されていると無意識のうちに判断している。
すべて、子が親から愛されようとするための無意識の行為であり、大人になってもそれに支配され続ける。

「存在してはいけない」に飲み込まれる時

両親の離婚・再婚によって、継父や継母を得たとき、新しい家庭の中で子供が居場所を失う経験をするのは、想像に難くない。
自分自身を「荷物」と感じた竹内さんの証言にも表れているように、だ。
自分は「存在してはいけない」という禁止令が無意識内に形成されると、そんな自分が存在を許されるための条件(拮抗禁止令)としてのドライバーを満たさなければいけない。
人を喜ばし、たゆまず努力し続け、感情を表に表さず、完璧を目指すことで、本来存在してはいけない自分が存在を許されている、と感じるならば、それらの努力を止めることができない。
泳ぐのを止めたら死んでしまう回遊魚のようなものだ。
人から見たら、「あの人は人にはいつも誠実で、努力家で、仕事熱心だ」と思われることだろう。
しかし本人は、ドライバーに駆り立てられ続け、心身共に疲弊していく。

ところが、それまで「御守り」のように自分を禁止令から守ってきたドライバーが、何かの局面で機能しなくなった時、その人は危機に陥る。
ドライバーさえ満たしていたら、禁止令の呪縛から逃れるはずだったのに、それが効かなくなった時、禁止令の呪縛に全面的に支配されてしまうのだ。
もし、その人がもともと持っている禁止令が「存在するな」であったならば、ドライバーの崩壊とともに、その人は「自分は生きていてはいけない」という切迫した気持ちになり、死を選ばざるを得ない、ということになる。
これが無意識の中にある禁止令の恐ろしさである。

本人自身も、それを自覚できないままに、禁止令やドライバーに翻弄されて生きている場合も多い。
実際、マリリン・モンローや、ダイアナ妃も、こうした禁止令によって悲劇的な死を遂げた、と言われている。

世間からどんなに高い評価を受けたとしても、自分自身をあるがままに受け容れることができない時、人は幸せになれない。
三浦春馬さんと竹内結子さんの死は、令和という時代を生きる私たちに、大きな問いを投げかけているように思える。
お二人の冥福を心よりお祈りしたい。


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