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秋のセンチメンタル・スイッチ

秋生まれだから、しょうがない。 
突然感傷的になってみたりするのも、突然なにかに熱中してしまうのも、突然にぎやかなところで大笑いしたくなるのも、突然何もかも閉ざして一人になりたくなるのも、そしてその全ての自分に嫌気がさすのも、その理由は全て秋生まれのせい。そういうことにしていた。

夏が終わった

9月に入って、突然秋らしくなってきた。
今までは、季節の移り変わりは「気付いたら秋だった」という感じで、グラデーションがかっているものだと思っていた。
でも今年は違った。9月1日、窓を開けた時のにおいがそれまでとはっきり違っていた。
8月の夏の間は木々の色が冴えて、少しじとっとりとした緑のにおいがした。
それがこの日は、肌にひんやりとした空気を感じる薄いグレーがかった青いにおいだった。
秋がきた、と思った。

開け放していた窓を閉めて、なんとなく外に出るのも億劫になる頃、気持ちはどんどん落ち込んでいく。
夏の間は外に出て新しいものに出会いたいと思っていたのに、秋になると自分の内へ内へと意識が向かう。

「明るく元気に」

小学校の標語は、だいたいこんな感じ。明るくて元気な子が「いい子」として褒められる。
いつも学校に行くのが嫌で、明るくも元気でもなかった私は、教室にいるだけでなんとなく居心地が悪かった。

秋になってその気持ちがふと蘇ってくると、その感情でいること自体がなにか悪いことをしている気になる。
夏の間は元気だけど、寒い時期だけ気持ちが沈み込んでしまう「冬季うつ」という病気があると知ったとき、まさにこれだ、と思った。
そしてそんな病名があるということは、多くの人にその兆候があって、もしかしてごく自然なことなのではないか?とも思った。

繰り返しではない季節

田舎に越して、自然の変化に敏感になった。
小学生の頃に先生が「日記に季節の移ろいを書きましょう」と言っていたのを思い出す。
当時は「どうせ繰り返すことなのに、どうして季節を大切にする必要があるんだろう」と不思議だった。

静かな早朝、外の明るさにふと目が覚めて、何時かも分からずカーテンを開ける。
一面が霧に包まれて真っ白だった。
いつも見ている場所のはずなのに、全く違う表情があったことを知る。
その瞬間、自然に身を包まれた感覚になった。
頭で考える必要はなく、ただその美しさに見入る。
それはすぐに変化してしまう。その経験は、その瞬間にしか感じられない。

自分の身を置く環境、その時の悩みや幸せ、それによっても景色の見え方は変わってくる。
絵画や彫刻を鑑賞するのとは違う、誰かがつくったものではない一瞬の経験。
季節は繰り返しているようで、そうではなかった。
景色には微妙な変化がある。私自身の状況にも。
季節の移ろいに気付くというのは、自分自身の変化に気づくことなんだと思った。

都会の季節は

東京にいた頃は、季節の移ろいはいつも駅ビルの中で感じていた。
浴衣や水着が置かれ始めると夏だなと感じるし、ウィンドウに紅葉した木が飾られ始めると、もうすぐ秋かと感じる。

インターンで都内の会社に一週間だけ通ったことがある。
家を出てコンクリートの道を自転車で走り、駅の階段を上り下りして電車を乗り換え、改札を出て屋根のある通路を歩いていけば、そのままオフィスに繋がっていた。
帰りはその道を戻っていく。
感じる空気は全て他人が吸って吐いた息で、目に入る自然は誰かが植えた街路樹のみ。
歩く道は全て硬いコンクリート。その一週間、一度も土を踏むことはなかった。

移ろうのは季節だけでなく

自然と自分がちぐはぐだった。
だから季節の移ろいによる自分の感情の変化を受け入れられず、「冬季うつ」として向き合っていくしかなかった。

耳には不快な鈍い音が響き、頭の中は冷や汗をかいたように焦り、目には水を張る。
誰に助けを求めたらいいかも分からず、ただ内に塞ぎ込んでいく感覚は、とても辛い。

でもそれも、木の色が新緑から深い緑に変化し、そして少しずつ渇き彩られ、散って枯木となる自然のサイクルと同じだと思えば、受け入れられる気がした。 

#田舎  #移住 #エッセイ #秋生まれ #センチメンタル

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