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リアル より リアリティ 〜作詞〜

歌詞に書いたことはぜんぶ現実のこと? っておもわれがち。

たぶん他のアーティストもそうかな。リリースのたびに、ゴシップやプライベートと内容を関連付けられたりしてたいへんだなぁっておもったりする。
起こったことしか書かない書けない、というひともいるけれど。

わたしの場合は、起きたことだけを綴ると逆にうそっぽくなったりして、うまくいかない。じぶんにしかみえてない糸を、みんなにみえてると錯覚して書き進んでしまったり。表現が野暮ったくなったり。

現実の出来事って案外、偶発や当人たちにしかわからない要素いっぱいで成り立ってるもので、話として伝えようとするときには背景の説明や注釈がたくさん必要になる。
作詞の場合は文字数的にも、音として流れていってしまう仕組みからしても、説明の余裕はない。
記憶の引き出しにある感情や情景のパーツを軸にしつつも、ディテールをわかりやすく組み立て直さないと、みんなに瞬時に伝わるものにならない。

説明ができないから、アイコンみたいなことばに置き換え、あとは聴き手の想像力にゆだねる。ゆだねる部分が多いからこそ、じぶんごととして深く捉えてくれたりするのかしら。

「あの曲、わたしのことを書いたのかとおもったんです」と、以前の活動でのLIVE後に泣き顔で近づいてくるひとも時々いた。
創作が誰かのリアルになる瞬間。

作詞って小説などよりも映画づくりに近いかも?ってよくおもう。


文章の専門家、ものかきとして著名な方たちが作詞した曲をうたう機会が何度かあったけれど、作詞はおとしこみ方が異なるらしく、いつも難航。
作家さん自身も不本意の完成品は、うたうのも難しかった。
ことばのリズムや感情の動きが、うたう者の心理と乖離していたから。

歌詞においての文字は、ひとつずつに課せられた任務がとても重く、メロディに乗せて成立することも最大限考慮しなくちゃならない。だから、作家さんたちがわるいのではなく、文章だからお手のもの、同じもの、と勘違いして依頼する側が安易すぎるんだとおもう。

歌詞って文字のようで文字じゃないのかもしれないな。

この、作詞という現実と妄想のスムージーを、しっかりとした形状にするために大事にしているのはリアリティ
そう、

       リアリティって架空のなかでこそ輝くもの

起こったことをうだうだ並べても、それはただの作文。
どうおもったか、じぶんの目で切り取って、架空に貼りつけることで
現実より現実味がうまれたりする不思議。

役者さんの「リアルな演技」も似ているのかな。
上手なひとのそれは日常の会話の延長のように錯覚するけど、よくみていると訓練からの巧妙なfakeだときづく。
再構築されたリアルだからこそ物語に馴染み、真実味が増すのかもって、上手なひとたちの演技には、ついつい真剣にみいっちゃう。

創作の割合が多いときほどリアリティは磨きたい。そしてそのリアルとおもうことがただの刷り込みだったり、ステレオタイプじゃないか、しつこく精査する。あえて定番をいくことも、もちろんあるけれど。

こうだからスキ、キライ、にくたらしい、かなしい、ひとの心理って行動って簡単に区分けできるほど単純じゃない。
絵画における反射光のように、いちばん暗そうな場所がほんのり明るくなっていたり、畏怖のまんなかに安堵があったり。
そんなふうに感情やシーンをじぶんなりに観察して、精度をあげて表現できたらいいなぁっておもいながら書く。描く。

わたしの創作はそんな感じ。
どこがウソでホントで、とかじゃない、創作であってもそれがまるごとでホントになっていればいいなって。

そう、大切におもっているのはリアルよりリアリティ。

リリィミンツ
SSMP
* ずっとウタうシゴトしています*

今年もたくさんの歌詞を、世界を描きました。
おもったことを書き綴るだけで、なんら役にたたないこのnoteも含め、応援してくださっているみなさん、ありがとうございます。
2024年もよろしくね、のきもちをこめて、ぷちこもひと足お先に着物でご挨拶です。

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