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EDENの世界観。

今日は私が2年くらい前に始めたEDENの世界観について書いていこうと思う。というのも、友人とこの2年くらいの間に展示会をやろうと計画していて、EDENの世界を深堀りしていかなければなあと思い立ったからだ。

元々、EDENという名前は旧約聖書に出てくる楽園、エデンの園を追放されたアダムとイヴを祖先とする人類がこの世界で様々な経験を経て新たに作った楽園、というイメージで考え始めた場所だ。

現代の生きづらさだけではなく、地球上で自分達が頂点だと勘違いしている人間が作った人間社会の隙間で、苦しんだり悲しんだり違和感を感じたりしている人たちがEDENという新しい街を作り、そこで職人となりジュエリーを作り続けている、という設定である。

だから私の考えるEDENはただ明るく楽しい楽園ではなく、

この楽園の街を作る以前には多くの犠牲が払われているのである。そして、EDEN以外の街ではまだ、悲しい出来事やしょうもない人間同士の争い、また人間の醜い支配欲のために犠牲になっている動物や植物がいるのだろうか、とかいうことを今考えている。(最近畜産や環境問題について調べ始めたから余計に気になる。)

そのことを、決して忘れてはいけない、と思っている。

私がもし、今この世界でいまだに起きている悲しい出来事(まだ紛争がある地域はあるし、貧困や飢えで苦しむ人たちもいる、食べるために勝手に生み出した命(畜産動物など)を閉じ込め、陽の光を見せることもなく無残に殺している人たちも沢山いる)にすべて蓋をして、

「楽園を作りました!」

と言ったとしても、それは逃げでしかなく、私が大嫌いな変化を嫌い罪悪感から逃げ続ける嘘つき人間たちと同じように「臭いものに蓋をしました」という行為で、その場所は、嘘の楽園の街になってしまうからだ。

整合性が取れないことは、出来ない。筋が通らないことは出来ないからなあ。

それに、罪悪感から逃げ続ける嘘つき人間達が大嫌いだ、と言ってみたけれど、それは一番最初の楽園である旧約聖書のエデンの園の話を考えると、

人類が罪悪感から逃げ続け嘘をつき続け、その嘘を正当化するために光と闇を作り出したのは納得がいく話で、仕方ない話でもあるのだ。

なぜなら、アダムとイヴは善悪の知恵の実を食べる前は罪悪感を持たなかった。罪がなにか、悪と善とは何かを知らないのだから、当たり前だ。

そして善悪の知恵の実を食べた。罪を知ってしまった。善悪を知ってしまった。善悪を始めて知った人で最初にした行いが悪だった時に、人は罪を認められるだろうか。きっと初めての経験にうろたえ、罪を逃れるために嘘をつき、自分を善だと正当化したがるだろう。

それは容易に想像がつく。

楽園を追放されたアダムとイヴ。多くの人類が嘘をつき、自分を正当化するために罪を重ね続けるのが人間の始まりだとしたら?

私はその根本を無視して新しい楽園を作ることは出来ない。

だって私自身も罪を犯したこともあり、嘘をつきたい気持ちもわかる。間違いを犯したことがある。

自分が心から納得出来る楽園の世界を創造するか。

ただの逃げ場としての楽園を創造するのか。

これは、大きな問題だなあ。じっくり考えていきたい。

徒然なるままにまとまりなく書いてみた。


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