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ぼくのやばい結婚

結婚して2ヶ月が経つ。指輪はまだない。夫のことを人前で呼ぶとき、まだ照れ臭くて「(苗字)さん」と呼んでしまう。新しくなった自分の名前は直視できない。

大事にするつもりはなかったのに、職場の上司に報告したらまたたくまに情報が広がり、思いがけない方からも「やばいね、おめでとう」などと祝福のお言葉をいただき、恐縮しどおしの2ヶ月だった。
ただ、私のマインドは結婚前後で全く変わっておらず、周りだけがガヤガヤしていて、「みんなは何をそんなに騒いでいるんだろう」と取り残されている。
こういう状況はどこかでみたことがあると思ったら、パンダだ。
「パンダのレイレイが、上野動物園にやってきた!」というニュース映像。ケージの周りはすごい人だかりで、そこかしこで「かわいー!」やら「意外とでかいんだなあ」やら「あ、こっち見てる!」やら好き勝手言われているけれど、パンダには人間の言葉は理解できないので、ぽかんと外を眺めているだけの、あの状況。

パンダは非常に困惑している。得体の知れない肌色の毛のない動物たちが、こちらを見ながらもごもごと口を動かしているので。見知らぬ土地で、自分が祝福されているのか、はたまた迷惑がられているのかもわからない。周りの声はどんどん大きくなる。とんでもないところに来てしまったのかもしれないと思いつつ、笹を食む。自分自身はどこで暮らそうが、マインドは変わらないのに。

どこへ行こうが生きていかれるということに、非常に大きな安心を覚える。たとえば遠出するとき、車窓から見える街たちに、私は不思議な想像をしてしまう。いつか、縁もゆかりもないこの街で暮らすことになったら—— 戸建てなんか建てちゃったり、子どもも産んじゃったりして。通り過ぎるだけだった街が、俄然生気を帯びて迫ってくる。この見知らぬ町には私の苦手な回覧板や町内会だってあるだろうに、それを密かに楽しんでさえいる。
どこでだって、私は私のまま暮らせる自信がある。そう思うようになったのは、引っ越しを重ねた賜物かもしれない。故郷でも、大学生の頃に住んだ街でも、東京にきて初めて住んだ街でも、いま夫と住んでいる街でも、なんとかやってきた。好きだった街も最後まで好きになれなかった街もある。馴染めなくとも、そこで息をし、食べ、たまに言葉を排出し、眠った。ずっと私は私だった。

私は、どこかに所属するということがとても苦手なくせに、芸術肌ではないので、学校には普通に通ったし今も勤め人として働いている。
ただ、安定を求めるわりにはそれが訪れると突然すべてをひっくり返してみたくなる。自分の足元がぐらぐらっとする感覚が好きなのだ。そして、肩書きや名誉を失っても命は続いていくことを体感する。人はどういうふうにだって在ることができるのだと、文字通り身をもって知る。
結婚は究極の所属のような気がしてちょっと忌み嫌っていた。だけど籍までも一緒がいいと思える人間と出会ったので、もう白旗をあげるしかなかった。さまざまな場所で「奥さま」と呼ばれるようになった世界は、所属することも悪くないかなと思わせてくれる。今のところは、という注意書きつきだけど。

「しかしさぁ、」
私たちのことをよく知る知人は言う。
「思い切った決断したよね。たった一人と一緒になろうって。しかもちゃんと恋愛したんでしょ。まだ選択の余地はあったのにさ」
彼女は私より随分と年上で、知見もある。それをいいことにずけずけと言う。彼女の周りでは、学歴、収入、外見などの条件で選んで結婚する人が多いそうだ。
「そういうの、今は逆にめずらしいよねえ」
とのこと。
「はあ、そうでしょうか…」
私にとってみれば条件だけで結婚するなんて、昔の政略結婚でない限りはそっちの方が耐えられませんけど、と口の中で言葉を噛み殺す。

みんなが言う「やばい」の意味は、職場恋愛だからか、はたまた恋愛した果ての結果だからか…。


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