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猫になりたい 1 彼が泣く

あらすじ
ある日、何の前触れもなく恋人が消えた。 残された大学生の僕は、すれ違いで現れた猫の「ミケ」と静かに暮らし始める。 ゆったりと奇妙な日々が流れていく。


彼女が消えた。

 本当になんの前触れもなく、消えてしまった。僕は成す術も無くただその事実の前で呆然と立ちすくんだ。恋人の僕にさえも何も言わずに失踪した彼女の意図は分からない。だけど僕は不思議と冷静だった。涙すら出なかった。
 外はいつになく寒くて、冷たい雨が降っている。気まぐれな空の下で僕は息を吸って、吐き出すのを繰り返した。鼻の中をつんと冷たい空気が刺激する。なんということのないそれすらも今の僕には確かに自分が生きていることを思い知らせる。雨の音が傘の上で不思議なリズムを叩く。僕の心臓も、こんな風に音をたてているのだろうか。

 彼女が消えて少し経ったころ、僕が帰宅すると玄関の前に一匹の猫がいた。まるで僕の帰りを待っていたかのように。暗闇で良くは見えないが、毛並みがつややかな三毛猫のようだった。その品のある佇まいに僕はしばらく見とれた。ふいにこの猫を飼ってみたいとも思った。が、すぐにこのマンションが動物厳禁だったことを思い出し、やむなく無視することにした。ドアを開け、すぐ中に入る。
しかし、まだ猫の鳴き声が聞こえてくる。しばらく無視していると、さらに鳴き声が激しさを増してきた。時計はもうすぐ夜中の十二時。これではご近所様の迷惑になってしまう。最悪の場合、僕が管理人さんに怒られるではないか。
 覗き窓から様子を伺うと、三毛猫の光る目が飛び込んできた。それに気づいたからかどうなのか、奴は爪で我が家のドアを思い切り引っ掻きはじめた。
 なんだこの猫は。そんなに俺の家に入りたいのか。それともただ気まぐれでそこにいるだけなのか……。
 しびれを切らした僕はとにかく引っ掻き行為を止めさせようと箒を持ってドアを少しだけ開けた。途端、三毛猫は行為をぴたりと止めてその隙間からするりと入ってきた。まるで夜の風のように、ふわりと隣にいる感じ。そのまま奴は奥まで進んでいく。あわててそれに続く。
「おい待てよ」
 と僕は言って三毛猫を抱き上げた。そして顔を覗き込んで心臓が止まるかと思うくらい驚いた。明るいところで見たその三毛猫の面影が、消えてしまった彼女にとてもよく似ていたから。仰天した僕はそのまま床にへたり込んでしまい、猫から手を放した。猫はくるりと一回転して着地し、僕と向きあう形で座ることになった。そして部屋に入って初めてミャアと小さく鳴いた。

 
 彼女と出会ったのは、一年前の春の日だった。大学に入学したての頃、近くのマンションに部屋を借りてそこから自転車通学することになった。ある日初日のゼミに遅れそうになった僕は、飛び出すように家を出て自転車を漕いでいた。すると道端の途中でうずくまっている女性がいる。足の辺りをかばっていて、どうやら怪我をしている様子だった。急いではいるものの、素通りしていくのもなんだか後ろめたいので声をかけることにした。
「大丈夫ですか」
 その声に驚いたように彼女が僕のほうを振り向いた。その拍子に長くて茶色の髪の毛がふわりと広がった。目が大きくて、ふしめがちな長い睫毛が印象的で、桃のようなピンク色の頬をした顔立ちをしていた。年齢は僕と同じくらいだろうか。
「あの……」
「怪我しているじゃないですか。歩けますか」
自転車から降りて駆け寄る。
「あの、平気です。気にしないで下さい……」
なんだか信用されていない様子だ。
「いや、こう見えても僕、怪しくありませんから」
 彼女が少し笑ったのが分かった。
「すぐそこまでなら送っていけるんで、乗って下さい」
 半ば無理矢理に僕は彼女を自転車の後ろに乗せた。腕時計を見るともうとっくにゼミが始まる時刻を過ぎていた。世間話をしていくにつれて彼女と僕が同じ大学の、しかも同じゼミを受講している学生であることに気づいた。その偶然が面白くて二人で笑いあった。今から急いでもどうせ遅刻だし、とゼミをサボることにし、保健室で手当を受けた後にキャンパス内のベンチで休憩をとった。彼女は本当にすみませんでしたとしきりに謝っていたが、それがちっともイヤミがなくて好感が持てた。
 初日からふたり揃ってゼミをサボったものだから、僕らは同じゼミの連中にやたら冷やかされることになった。でも僕も彼女も、まんざらでもなかった。
それからしばらくして、僕たちは本当に付き合うことになった。最初に気持ちを打ち明けたのは僕のほうで、愛の言葉の途中で、しきりにくしゃみをする花粉症の僕を見て君は笑い転げていた。
「笑ってんじゃねぇよ」
口ではそういいつつも、僕も笑い飛ばす彼女を見て笑った。

 目の前に座った三毛猫の様子がなんだかとても懐かしくて、そこで初めて僕は泣いてしまった。自分でも不思議なくらい、いともあっさりと涙が溢れて止まらなかった。
 どうしてだろう。失踪したときは一粒も流れなかったのに、ここにきておかしいくらい涙が止まらない。このまま僕の体にある全ての水分が流れて、大きな河になりそうだ。そのなかで溺れる僕を、誰か助けてくれるだろうか。
君は河の底まで来てくれるだろうか。
 三毛猫はそんな僕のそばに寄ってきて膝に頬ずりをした。抱き上げて腕にしっかりと抱きしめる。しばらくの間、そのまま僕はずっと泣いていた。
 僕はこの三毛猫をひそかに飼うことにした。不思議とその三毛猫は家のなかでは鳴かないので近所の人たちにもばれずに済んだ。僕は三毛猫に自分でも在り来たりとあきれるがミケと名づけ、こうして一人と一匹の内緒の共同生活が始まった。何日か経つにつれてミケには不思議な動作の傾向があることが分かってきた。たとえば、テレビで音楽番組をやっていてあるアーティストが映ったりすると、必ず前にちょこんと座って凝視するのである。餌を食べていようが、眠っていようが行為を中断して必ずいつもの定位置に移動するのだ。しかもそのアーティストは消えた彼女が好きだったスガシカオだったりするから、よりいっそう僕を狐につままれた気分にさせるのである。

 ある日のこと。いつものようにミケに餌を与え、深夜番組にも飽きて寝るためにシャワーを浴びようとした。するとなんだか視線を感じるのである。まるで、獲物を狙うハンターのような、殺気立った、しかしそれがばれないように必死に隠しているような、奇妙な視線。最初はミケの視線かとも考えたが、当の奴はテレビに夢中になっている。気になるがあまりに眠かったため、とりあえず風呂場に急いだ。そしてシャワーを浴びることにした。
 しかし、その視線はそのまま風呂場にまで付いてきた。さすがに気味が悪くなり、なんとなくふっとドアのほうを見ると、僕はそのままその場にへたり込んだ。眠気も吹っ飛んでしまった。なんと、覆面の男が刃物を持ってこっちを見ているではないか。
「うわぁ! 誰だ!」
「ぎゃあ! 離せ!」
 僕とその男が同時に叫んだ。事態がよく掴めないまま男の後ろのほうに視線をやると、ミケが男の後頭部に思いっきり喰らいついている。
「こら! 離せ! 畜生!」
 男が乱暴に体を揺すっても、ミケはなおもしぶとく喰らい付いていた。ようやく体が動かせるようになった僕は、懇親の力で男をその場に抑え込んだ。
「お前のせいだ!お前のせいで彼女が消えてしまったんだ!」
 乱暴に覆面を剥ぎ取るとそこに現れた顔は、去年のゼミで一緒だった影の薄い男だった。どうやら彼女に片思いをしていたこの男は、彼女の失踪の理由が僕にあると思い込んだ。そして腹いせに僕が一人でいるところを襲おうとしたらしい。あの奇妙な視線も、一人になる隙をベランダから伺っていた時のものだと分かった。僕はこいつを布団でぐるぐる巻きにして身動きを取れなくすると、警察に電話をかけた。

 まもなく警官がやってきて、男は無事に補導された。ご近所さんもびっくりして様子を見に出てきた。物盗りが進入したと言ってごまかしたが、好奇心旺盛なご近所さんたちは怪訝そうな顔をしてまたもとの部屋にそれぞれ戻っていった。そしてあらかじめ押入れのなかに隠しておいたミケを出してやろうとふすまを開けたら、もうぐっすりと眠っていた。覆面男に力の限りかじりついたから、疲れてしまったのだろう。
 僕はミケに毛布をかけてやりながらサンキュと小さくつぶやいて、ふすまを閉めた。

©️Disney


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