2011.3.11



家がプリンのように揺れて、銭湯の煙突が折れ、校舎が傾いて、街に黒煙が昇った日から10年が経ちました。

上記は全て東京で起こったことです。
東京でも、こんなに被害が大きかったわけです。

当時中学生だった僕は帰り道、はしゃぐ小学生たちが突然道の上でしゃがみこみ、ようやく揺れを実感しました。
左では一軒家が湾曲したように揺れて、右では銭湯の煙突の先端がベキっと折れる音が鳴りました。

揺れが収まって、家のことが心配になった僕は家路を急ぎました。

その途中、駅前のイオンに差し掛かった時、衝撃の光景がありました。
数百人を超える人々がイオンの周りを埋めつくし、皆ワンセグでニュース速報を眺めていました。母曰くその後の営業はままならず、万引きが多発していたそうです。

これは東京の話です。

家に帰ると物が至る所に散乱していましたが、家族は無事でした。仕事中の父親にすぐ連絡をとって、ホッとしたのも束の間。

テレビから聞き慣れない怒号が響きました。何事かと思って見てみると、普段は冷静な口調でニュースを読み上げるキャスターが叫んでいたのです。

「早く逃げて!」

その声と共に映し出されたのは、濁流が街を洗っていく様子でした。
それぞれの生活を丸ごと飲み込んでいく津波。
それをただ映し出すことしか出来ないカメラ。
届かないと分かっていても叫ぶことしか出来ないキャスター。

やがてあの日の出来事は東日本大震災と称され、毎日のように平和を望むCMが繰り返し流され、大勢の"日常"が壊されました。

1ヶ月半が経っても懸命な救助活動が行われ、再び巡り会えた家族、変わり果てた姿で再会した家族、希望と絶望が入り混じる日々。
そんな時に僕はYouTubeであるMVを見つけました。

https://youtu.be/4y1MOoYrXXM

KREVAは後にこう語っています。
「それぞれの動きや考えはバラバラでもいいと思うんですよ。最終的に目指すゴールが同じであれば。当初はライブを積極的に盛り上げようとするお客さんを思い浮かべていたんですけど、日本がこういう状況になって「別の意味をもつ曲になったね」ってスタッフと話していて。ただ、こういう時世を踏まえてもリスナーに届けられる曲を作っていた自分を信頼できるというか。そういう思いはありますね」

東日本大震災前に製作され、東日本大震災後に公開されたMVの中でKREVAは東京の街並みを背に、一度音楽を止めます。
サングラスをゆっくりと外し、フードをゆっくりと剥いで、彼は東京の空の下でアカペラを歌います。

誰だっていい、出来かかった壁なんてキック
取っ払って飛ばしたっていい
時に遠慮なんていらないコミュニケーション
君もそこの君もそこの君だって持ってるオピニオン
今日はスっと解放
意外と広いストライクゾーン

声が出せないんだったら
鳴らせ、ハンドクラップがある
それかもっといけるんなら
体揺らしてダンスがある
それは恥ずかしいってんなら
拳上げなよ、高く、高く
要は得意分野でやっちゃってくれ俺の分まで

ちょっとくらい自分くらいって
油断してる隙に熱が冷めてくぜ
無理に背負い込むなよ責任感
自分の中のベストでいいんだ
90%じゃ足りなくて、やっぱ100%出してくれ

一人一人てんでバラバラでいいんだ
同じとこ目指す仲間だから


あの日以降あらゆる娯楽が自粛されて、皆誰に従って生きればいいか分からなくなった日本の空の下でこの歌詞が響きました。

2021年現在、コロナウイルスで自粛が続き、あらゆる"日常"が一変しました。
だからこそ今、10年経った今日、この歌が改めて強く胸に刺さりました。


一体誰がなんのこの場のキャプテン
皆声掛けあって上がる作戦で
All right 行こう
C'mon C'mon Let's go Let's go



ようやく10年
まだ10年

月日の感じ方は人それぞれです。

でも僕は強く思います。

これから10年
あの日を風化させないように。

あの日から時間が止まってしまった人たちのために。

遠く離れた東京から、勝手に背負い込んで今日を生きていこうと思います。


https://fukko.yahoo.co.jp/


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