ひそやかな花園
自分のルーツを知りたいと思うのは、人間の本能みたいなものなのだろうか。自分のこの性質はどこから来ているのか。なぜこんな価値観を持つのか。それを考えたとき、自分の生い立ちだけで全て納得することは出来ない。そこでやはり、人は自分のルーツを辿るのだと思う。
この物語の登場人物たちは、そんなルーツが辿りようもないという境遇を共通して持つ。確かに、ルーツを「知らない」のならまだしも、「知ることができない」というのはとても心細いのかもしれない。
20歳を過ぎた頃から、父と母の昔話をよく聞くようになった。父と母が自分から話し出すことはあまりないが、それとなく昔の話を振ってみたりする。
二人が出会う前の子供だった頃の話。どこに住んでいたのか、何をしていたのか、どんな子供だったのか。こちらから話を振ると、二人はポロポロと断片的に話してくれる。それは、これまで見てきた父と母とはまた違う、一人の人間としての一面である。
その話を聞いているとき、無意識に昔の二人と自分を重ね合わせている。自分と同じ歳だった父と母が何を考え、何をしていたのか。今の自分を重ね、そこに彼らとの違いや共通点を見つける。その「違い」は二人を尊敬する種になり、「共通点」は自分自身を安心させる種となる。
けれど、その「違い」や「共通点」は、人によっては憎しみの種となりうることもある。「違い」はコンプレックスの種となり、「共通点」は嫌悪の種となる。
そもそもこの物語の登場人物たちは「違い」や「共通点」を見出すことさえも出来ない。自分のルーツが知りようもない次元にあるとわかったとき、そのときに感じるのはとてつもなく大きな不安や恐怖である。
物事が思い通りに進まないとき、その原因をルーツに求めることが出来るのはまだ幸せなのかもしれない。賢人や紗有美や雄一郎は、それすら出来ず、自分自身の存在に恐怖するしかなかった。
でも、この物語はそんな彼らにも希望を残す。たとえ血のつながりがなくても、かつての樹里の父のように、生まれてくる命に自分なりの希望を持つのであれば、それ以上に必要なものが他にあるだろうか。血のつながりを越える関係が、つきまとうルーツへの不安や恐怖を和らげることはできないだろうか。
血縁とは異なる結びつきが多く存在する今だからこそ、このメッセージは切実に自分たち迫ってくるのだと思う。
ルーツを知って救われることは、それはそれで素晴らしいことだ。でも、たとえそうでなくても大丈夫。生きていける。そんな前向きなメッセージがこの物語にあるのだと思った。