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共同体の終わりなんて、ありふれてる。そして、世界の終わりと言うほどのものでもない。

マスクのXが抱える問題はシンプル「アプリに革新性がない」 | Forbes 2023-12-13

私は正直「革新性」や「イノベーション」は、SNS、というかウェブ上の共同体に必須の条件でないと思っている。
2ch(現5ch)のような終焉、つまり多様性を失い「若さ」を失った共同体というのはそのうち、運営が採算度外視で維持することだけに精一杯になり、倫理観を失い、動きが鈍くなり、放置するしかなくなり、コスト的ににっちもさっちも立ち行かなくなれば、消滅する。
世界は荒れ地に戻り、最後は消える。

いま私は少しずつ、threadsを自身のネットの居場所として整備し始めているところだけれど、そこもRAWな状態では「私のためのユートピア」になれないことは明らかで、だからこそ殻に引きこもれるようにフォローやらブロックやらミュートやらの機能があって、狭い世界をもっと狭くデザインできるようになっている。
参加者にはそうする自由がある。noteもブクログもはてなダイアリーも、あちらもこちらもあれもそれも、みんな一緒。

いずれthreadsが、twitter(X)や現5chのようになってしまうのはきっと誰もが分かっている(はず)。だけれども、もともと共同体というのは、文明から小学生の仲良しグループまで、本質的に同じような経緯をたどる。
新陳代謝を繰り返し、それもままならなくなり、最後は老化し衰滅する。threadsにせよnoteにせよ、数年後、あのGoogle+のようにならないとは限らない。

ではそのとき、「私は私をどこに持っていくか」。
「他のSNSへ」とは言わない。
図書館や映画館、レコード屋さんに日々籠ったっていい。ボランティアや地域の小さな郷土史勉強会に参加したっていいし、お気に入りの喫茶店を見つけて(SNSのアップするネタを探しに、狙った光や影を捉えるために時間を合わせて出向くのではなく)、好きなときにコーヒーをじっくり味わうために通ったっていい。
カメラやスマホやPC越しに世界を探さないといけない理由は、それほどない。

SNS以外のところには他者や世界との関わり合いがないなんてことはない。
たしかにネットを介した他者とのかかわりには特有の快楽があるけれど、歴史的にみればかなり特殊な快楽だ。(もしかしたらこれからそう特殊ではなくなる類のそれかもしれないけど、それでもまだまだ)「特殊な」享楽にしがみつくのはそれなりにヘンタイっぽい。
少なくとも、その自覚は必要な気がする。

この享楽は悪いことではないかもしれないけど、でも趣味として局限できるような問題でもないとしたら?
Exhibitionistic Disorderが社会病理化してしまってるとしたら?

いまは誰もかれもがExhibitionistにならねばと思いこんでしまいがちな時代で、恥ずかしながら私自身もそういう手合いなんだろうと思う。
とまれ「どこへ行くか」ではなく、「どういう自分になるのか」が大切なんだと、私は思う。平凡でつまらない、説教じみた謂いになるけれども。
いまExhibitionistであることをやめたって別になんの問題もない。普通に楽しく愉快に生きていける。

枠の外に出て自分を選ぶことだって「自由」なんだから。

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