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伊藤ヒョー『坂道』

そういえば、ニュースやドキュメンタリー以外のテレビ番組をいっさい見なくなった。
音楽以外の動画、たとえばYouTuberの動画なんかも、さらにTikTokすらも、自分からは見ない。途中で耐えられなくなって視聴をやめてしまう。数秒で済むならいいんだけど。

以前は、仕事で仕方なくドラマを延々と見ないといけなくなることがあって、それが苦痛で、その種の仕事はとらなくなってしまった。アニメならまだ大丈夫なのに。生身の人間の、大仰で寒々しいテレビ向けな演技と表情が、私にはすっかり合わなくなってしまった。ワイプのひな壇芸人さんたちの顔なんか、ほんとうに見てられない。

悪いわけじゃない。
ただ私にはもう合わないし必要がないというだけ。



いつ買ったのか、どこで買ったのか忘れてしまったままに(たぶん山口の古書店で買った記憶がうっすらあるが自信はない)、本棚の隅っこに積んでいた古い個人歌集をお布団のなかで読んでいた。作者名と個人名で検索しても出てこない。国立国会図書館にも蔵書されていない。もう誰からも忘れられてる名古屋にいた市井の歌人の本。

生活に即した、醒めた目線のシニカルな歌が多いけれど、私はこんな歌を拾う。

侘助の白極まれる花に対き傷つき易き自分への私語

伊藤ヒョー『坂道』(S.56 水甕叢書 第394篇)p.67

「対き」はどう読むのだろう。
たぶん「むき」なんだと思う。
真っ白な侘助を前に、このひとは、いったいなにを呟いたんだろう。

「自分への私語」という表現の、不思議な響き。同族の誰にも届けないし明かさないけれど、たしかにそこにあった言葉。いや、あったということだけが明らかにされた言葉。ネットは広大だけど、どこを探しても絶対にあるはずがない、不在の言葉。


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