リストラの話つづき

こんばんば。

リストラになったけどほっとした話 を読んでくださった方々、ありがとうございます。コロナの影響とそれに伴う経営方針の変更により、6月末に退職が決まっている30半ばのオタクです。

しばらくは平気平気〜と思っていたけれどだんだん仕事に身が入らなくなってきて、パソコンに向かいただボーッとする日々が続いてしまっています。自分の担当の引き継ぎ資料作ったりしなきゃいけないのに。ダメ社会人ですね。

新しい職は辞めてから探そうなんて呑気に考えていたけれど、このご時世だと内定をもらうまでに半年、それ以上かかったりする人もいるようで。恐ろしや・・・。

そこで、今後何をしたいか探るためにも今まで自分がやってきた仕事(アルバイト含む)を振り返っていこうかなと思います。

15歳

当時(2000年代前半)は仕事を始めて100時間未満の人の賃金は1時間6ドルで良いという法律があり、私はその時給で近所の小さな寿司レストランでテイクアウト用の寿司を詰めたりカウンターでお客さんの注文を聞いたり、料理を運ぶバイトをしていましたが、あまりシフトを入れてもらえず、1ヶ月ほどで辞めました。

16歳

カナダ人なら誰もが知っている有名な大型スーパーで「Courtesy Clerk」という仕事を始めました。Courtesyとは親切、サービス、のような意味あいがあります。採用された時、何をするんですか?と聞くと、サンタのエルフみたいなものよ!と言われました。なるほどわからん。職務はいわゆる雑務で、全部のレジと繋がっている電話を持たされ、レジと棚で違う値段が打ち出されると正しい表記を確認しに行ったり、お客さんの荷物を車まで運んだり(25キロの玉ねぎを運んでぎっくり腰になりました)、汚れたカゴを拭いたり、カートが溜まり車道にはみ出すと困るのでそれを整理したりしていました。今思うと危ないのですが、広い店内を走り回るため、ローラーブレードの着用が許可されていて、小さい子供にかっこいい!と言われるのが快感でした。学校がある時は週4日シフトを入れていて、長期休みでもバイトは週30時間が限界だったと思います。20歳になるまで続けていたここでの仕事はとても楽しくて、辞めてから13年経ちますが、地元に帰った際に立ち寄るとおばちゃん店員さんはみんな私の事を覚えていてくれて、いつも声をかけてくれるのが嬉しいです。

17歳

高校2年の夏休みに、交換留学で韓国から生徒が来るということで、子供達に英語を教えるESLの先生のアシスタントをしていました。毎日というわけでもなく昼前には終わるので、午後からスーパーのバイトに行っていました。

また、父から「知り合いのレストランで人出が足りないから手伝ってくれ」と頼まれて、夏休みの間だけ、バスと電車を乗り継いで50分くらいの日本食レストラン(ベトナム人の家族経営)で週2〜3日ウエイトレスをしていました。

18歳

今度は母から「今働いてるレストランで人出が足りないから手伝って」と頼まれて(こちらは日本人のご夫婦経営)週1日だけ、近所の日本食レストランでウエイトレスをしていました。ちょっとお高いお店なだけあって客層も上品でした。こちらは4〜5ヶ月働かせてもらっていたような?

また、上記のESLに正式雇用してもらい、大学入学前の夏休み(カナダは6月から8月末までが夏休みで、9月から1学期です)に週5でアクティビティー(水族館や観光地に行っていました)の引率をしていました。この年は日本の中学生の留学生グループ(私の担当じゃなかったけど)と行動が一緒になることが多く、オレンジレンジの曲を教えてもらいました。

この時は本当に忙しく、朝学校に行って子供達と全力で遊び、昼に帰ってきて急いで家の掃除と洗濯をして兄の夕飯を作り、弁当を持ってスーパーのバイトに走るという感じでした。この夏休みで大学の入学費と学費の大半を稼ぎました。

19歳

あんなに苦労して学費を稼いだのに大学をたった2学期で中退してしまったわけで、やる気もなくただスーパーのバイトを続けていました。この時レジ係に昇格しました。やったね。

20歳

次の年に無事、美大に転入。スーパーを辞め、緑のエプロンのコーヒー屋でバイトを始めることに。友達もたくさん出来て、今でも仲良くしてる人が何人もいます。カフェイン中毒なのでコーヒー飲み放題が嬉しかった。

この時、両親が念願だったレストランをオープン、授業やバイトが無い日はウエイトレスや皿洗いをしていました。(喧嘩になるからすぐ辞めた)

21歳

大学の課題で忙しかったためコーヒー屋のバイトは週1に減らし、泊まり込みで制作に励みながら、長期休みだけめいいっぱいシフトを入れGAPにも応募、無事採用されるも同僚がヤク中(バンクーバーは世界有数のドラッグシティです)のアル中(休憩室にラムのボトル常備)で仕事中に絡んでくるのがウザくて1ヶ月で辞めました。

23歳

大学卒業後もしばらく働いていたのですが副店長と喧嘩して緑のエプロンの店を辞めることに。そのいきおいで東京へワーホリへ。

秋葉原の某アニメショップでバイトを始めるも、仕事は一切教えてもらえず何か触ると怒鳴られ毎日死ねと言われ続け6キロ痩せるが、このフロア厳しくて3ヶ月の研修期間通った人いないんだよwって言われたら負けず嫌い精神が黙っていられず研修期間終了おめでとう、と言われた日に「辞めます!」と笑顔で言ってエプロンをゴミ箱に叩きつけました。おめでとう私。

その後、パン屋兼カフェでバイトを始め、みんないい人でストレス0な上に余りもののパンをむしゃむしゃ食べていたら10キロ太りました。

他にもイベントスタッフに登録していたので、呼ばれた時だけ展示会の引導スタッフなどをやっていました。

ワーホリ後半は一緒のシェアハウスの子に人出が足りないから、と頼まれて朝はパン屋、夜はホテルのレストランでホールをやっていましたが、ここでも初日から死ねと言ってくる先輩がいて「日本人は死ねが好きなのか!?」と日本人不審になりかけましたがお客さんがわざわざ手紙で「たんぽぽさんというスタッフのサービスがとても良かったです」と書いてくださったのを見て涙が出たので辞めました。この時の手帳見ると平均で週に70時間バイトいれてたので疲れてたんだと思う。

24歳

カナダに帰国したものの就職先が見つからず、とりあえず美容師の友達の働いている美容院で受付のバイトを始める。

その後ひょんなことから翻訳会社に就職するも、土日が暇なので美容院の仕事も続け、週7で働いてたら増えた10キロは元通りになっていました。翻訳会社は不安定でちゃんと給料が出ない事が数回ありました。(数ヶ月後に支払われてた)

25歳

日本に行きたい欲が高まり、日本国籍を取得し再度来日することを決意。翻訳会社の日本支社に転職することに。

と、同時に2年制の夜間のデザイン学校に通い始める。(週3日)授業料はこの前年に働いた貯金から捻出しました。

27歳

念願のデザイン会社に就職するも半年で買収され別の会社へ移るもそこがブラックで、月100時間残業、土日出勤、毎日終電帰り、パソコンの前にカメラを付けて監視と散々でした。元社長が抗議したところ全社員投げ出されその月の給料は無し、この先も給料出ないかもしれないけどまた立ち上げるから耐えてくれる?と聞かれ、無理です・・・とお断りし退職しました。キツかったけどアプリ制作を任せてもらえたり、仕事内容はすごく楽しかったです。

ギリギリ生きていけるくらいのお給料で貯金もなかったので、知り合いのツテや前の会社から翻訳の仕事をいただいて食い繋ぎました。

28歳

某会社に派遣社員枠として就職するも、最初の4ヶ月は本社待機。ただ待機。することが無くて気が狂いそうでした。やっと派遣先が決まるものの、そちらも2〜3時間で終わる仕事が週に1度あるかないかという暇すぎる部署で脳死する〜と思って転職を決意。

29歳

現在の外資IT企業に転職。広告デザイン、コンサルを担当。半年に一度は組織変更、1年に一度はCOEが変わる日々目まぐるしい進化がある会社。だけど毎月お給料もらえるし有給取りたいって言っても別室に連れて行かれて説教される事も無いし海外出張にかこつけて美味しいもの食べれるしで本当にいい会社でした。

34歳

リストラ ←いまここ。

辿ってみても、なにも思い浮かびませんでした・・・。

焦っても仕方ないと分かってはいるのですが、今まで何かから逃げるための選択ばかりしてきたので、本当に自分が何がしたいのか、さっぱりわからないです。

フリーでやっている翻訳の仕事は今でもずっと受けているのですが、それだけで食べていくのは実際どうかな。仕事をしていないと自分が世界から必要とされてないような気になって鬱が悪化してしまうので、忙しくしていたいのは山々なのですが・・・。

近いうちに何か見つかるといいなあ。

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