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10歳の頃のあこがれ


 10歳の時、初めて随筆なるものを知った。向田邦子の「眠る盃」がきっかけだった。そのころから随筆家・エッセイストというものにあこがれを持っている。

 当時中学受験の塾に通っていた私は、国語の授業で小説、詩歌、論説文といった様々な文章を読むのが楽しみだったが、その中で出会い、ひときわ印象深く思ったのが向田邦子の随筆であった。

 例えば、受験問題の題材になるような小説は、当時の私にとっては説教臭いものが多い気がしていた。挿絵の多い子供向けの本から大人向けの小説にステップアップする境目の、”ティーンズ“等と呼ばれる類の本であるが、いじめや不登校といった問題や、時には第二次性徴を取り上げたような小説が抜粋され、受験問題として出題されていた記憶がある。過去問をきっかけに手に取ってみた小説も多くあったが、あまりにメッセージ性が強すぎる内容であると、つまらない気分になったものだ。ページの向こうから校長先生の声が降ってくるような感覚を覚え、あとがきや解説に保護者向けの言葉がつづられていると、まるで本を通じて大人に支配されているような気分になった。私は天邪鬼でひねくれた子供だったのかもしれない。

 一方で、詩歌や論説文は時事問題や社会課題につながるものが多く取り上げられていて、小説よりも面白かった。茨木のり子の反戦をうたった詩や正岡子規が病床で残した俳句は印象深い。論説文は河合雅雄の動物の生態を取り上げた作品等が記憶にある。特に論説文は、取り上げられるテーマの多様さと鮮やかな論理展開が楽しく、自分の知識が増えていく快感を覚えた。

 そうした国語の受験勉強の中で一際インパクトがあったのが、随筆文として取り上げられた向田の作品だった。小説や論説文とは異なるリアリティ、日々の些細な出来事や幼少期の思い出が的確な言葉と構成で描かれている。こんな文章があるのか、と驚嘆した。作者の個性や価値観が滲み出し、リズミカルな語り口で私に新たな発見を与えてくれる。とても自由でキラキラした世界が紙の中に広がっていた。

それをきっかけに、私は向田に限らず様々な作家の随筆集を読んだ。そしてあらゆる作品に対し、きっと同じ体験をしてもこれ程面白く美しく描くことは私にはできないと思った。同時に、書き残せば、私の日々もキラキラしたエッセイになるのかもしれないと期待した。だが、当時の私には書き残したい題材がよくわからなかった。将来随筆を書けるようになるといいな、と漠然と思って終わってしまった。

今や26になった私は、仕事につき、家庭を持ち、都会の喧騒の中で暮らす日々を送るが、毎日様々なことを感じ、考えているはずである。10歳のころから確実に成長し、世界が広がり、知識も経験も深まってきたつもりだ。あの頃、どうすれば随筆を書けるようになると考えていたのか、今となっては思い出せないが、最近になって記憶が薄れないうちに書き残しておきたい出会いや、言葉で整理しておくべき感情が、心の底に溜まってきたのに気づいた。何よりも、この忙しく充実した日々の中でも、10歳の時分に覚えた随筆へのあこがれは消えなかったという事実に、そろそろ向き合ってみてもいいかもしれないと思った。

それならば、今年は、そろそろ長年あこがれていた随筆なるものを目指して、どこかでのんびりと書いてみようか。

まず初めに、なぜ私が随筆にあこがれるようになったのかを思い出してみた、2022年の正月である。

#note書き初め


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