ゲイの世界の深い闇
さて、わたしがTwitterなどでゲイの人たちと絡み始めてからもう10年近く経つ。
自分のセクシュアリティの歪さをはっきりと認識したのは高校生の頃だった。
ずっと前から薄々感じていたことではあったのだけど。
ゲイの世界も、女性の世界と同じように、高校生ブランドがあるし、
自分と同じようなゲイの高校生たちも、大人に対する恐怖心からか、自分達と似た年格好の男の子との付き合いを希望しているようだった。
ネットというものは恐ろしく、自分と似た年齢の人たちが、過激な画像を投稿したり、陰部の写真を投稿したりするのを見ても、何も思わなくなっていく。
私達ゲイというのは、欧米では特に、キリスト教の下で迫害された歴史がある。
日本でも、みんな均一的に一緒でなければならないという同調圧力が強くなっている昨今、「男性が好意の対象である」というのは良く捉えられても色物扱い、悪く捉えられればいじめなどの対象になることも容易に考えられた。
そのなかでわたしは、自分のセクシュアリティをひた隠しにし、男性的に振る舞うことで、自分が男性が好きであるという事実に蓋をした。
一方で、Twitterなどでは男の子の裸を閲覧して、性的に消費していた。
このギャップというか、二律背反が、
「わたし」というものを、「わたし」という感覚を鈍らせたと思っている。
「みんな」が思っている「わたし」と
「わたし」が思っている「本当のわたし」の隔たりは言葉では表現できないくらいに空虚で、寂しいものだった。
こんな生き方がしたかったのだっけ?
この話の結末はどこかで書いた気がするので、ここで筆を置こうと思う。
そして、10年間もゲイの世界を観てきて思うのだが、男性とは快楽を司るドーパミンに支配されやすいのだろうか?
日常的にポルノが蔓延り、性依存症の若い男の子が人気を博す、異常な空間がそこには広がっている。
やれ付き合っただの、別れただの、
XXXXしただの、どうでもよい情報で溢れかえっており、「性」に支配されているのだなと思う。
右も左もわからない若い頃ならいざ知らずいい歳こいてる人間が、その集団を形成していたりするのを見るのは正直にいって虫酸が走る。
そうなれないのは、わたしに問題があるのではないか、などと考えたこともあったのだが、そんなことはない、どう考えても世界の方が狂っている。
普通に考えればわかると思うが
あの世界にまともに適応して、馬鹿正直に周りに倣ったところで、間違いなく幸せにはなれないだろうなと思った。
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