「劣等感」という名の悪魔

僕の中には悪魔がいる。

「劣等感」という名の悪魔だ。

何かを始めるとすぐに「お前の行動に価値はない」「お前よりずっとできる人がいる」と耳元で囁きかける悪魔の声が聞こえてくる。

こうして文章を書いている時もそうだ。読みやすい文章でも無ければ、知識量があるわけではない。中途半端な内容をネットに垂れ流ししているお前の文章に価値なんか無いと、いつも耳元で囁きかける悪魔がいる。

例えば、隣の席の同僚と話している時。当たり障りのない話題を選べたか、声のトーンがおかしくなかったか。滑舌が悪くなかったか。

ほんの少しのやり取りだけでも、悪魔は顔を出してくる。にやにやと口元を歪めて「お前は他の人よりもダメな奴だ」と他人との比較を始める。

自己肯定感の乏しさとか、成功体験の少なさとか、幼少期のトラウマとか、社会人としてまともに生きていない事とか。悪魔が僕の中に巣くうようになった理由はいくらでも考えられる。

けれど少なくとも学生時代には、色々な事に積極的に挑戦したり、多くの人と関わろうとしていたと思う。真面目に勉強したかと言えばそうではないけど、できるだけ多くの経験をしようと自分なりに前向きで居た気がする。

無根拠なエネルギーと自信が、少なくともあった。

でも今の自分は違う。

社会人になって、自分が如何に「出来ない人間」という事を思い知らされた。求められたノルマについていくのに必死だし、同期とは実力の距離を置かれるばかり。結局、何かから逃げるように転職を繰り返して、結局、どこに定まるかわからないままに人生を流れ続けている。

なりたいものもあったし、目指したい場所もあった。しかしその悉くがかなわずに僕はいま、結局「やりたくないこと」で飯を食べている。満員電車に運ばれて、クレームに頭を下げて一日を終える。疲れが取れないまま明日を迎え、再び死んだ目で満員電車に乗り、仕事に行く。

それは中学生の頃、僕が軽蔑していた大人そのものだった。
理想と現実のギャップ。無根拠な自信が社会に破壊された事の反動。
年齢を重ねるにつれ、背中にのしかかる社会的責任への怯え。

悪魔が生まれた理由はそんな所だと思う。

普通の人がどうなのかわからない。
「考えすぎだよ」と言われる事もある。
気楽に生きられたら素晴らしいだろうと思う。
少しでも自己肯定感が育めたら、わずかでも成功体験が積めたらと思う。

それでも僕の中には悪魔がいる。
僕の体を内側から腐らせていく呪いが掛けられている。
この呪いから解き放たれるため、僕は一体、何をしたらいいのだろうか。

誰かに褒めてほしいのか、誰かに認めてほしいのか?でも、それは違う。
褒められたとしても認められたとしても、きっと自分で自分を許すことができないと、この呪いは解けないのだと思う。でも、それはどうやって?

わかっていれば悩むわけがない。わからないから、つらい。

でも、僕が文章を書き続けているのは、この呪いを振り払う為だ。

いくら無様な文章であっても、僕にとって「ものを書く」こと。それこそが闇の中でもがき続けるために残された唯一の武器だと信じている。

いつか自分で自分を認めることが出来るようになれればいいと思う。誰かと自分を比較することをやめ、出来ない事を割り切って、できる事を喜ぶようになれればと思う。

死なない限り明日は来る。
どうすればいいのか分からないなりに、今日も僕は生きている。

明日も満員電車に揺られながら、死んだ目をしているサラリーマンたちの群れの中のひとりになる。

なにせ人身事故で電車が止まるのがもはや日常的な世の中だ。「まだ死んでない」という事くらいは、褒めてやってもいいのかもしれない。

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