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オープンチャット6日目記録(4/10)

オープンチャット6日目です。前回は社会の要請する愛が、個人の意識にどのくらい影響を及ぼしているのかという話をしました。

3日目まで何も発言しなかったのに、今回はほぼ私が喋ってしまいました…明日以降、二人がどう返答してくれるのか楽しみです。また、LINEのノートコメントもお待ちしてますね!(もちろん、ここのnoteにコメント頂いても、嬉しいです!!)

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6日目スタート

りりせ:私が最近考えていることの話をします。

私はそもそも一生結婚もしないし、子供も産まないだろうな(相手もいないのに、そう言った願望が先行して存在していない)と思って、いつか孫が見れることを期待していた親にも、そうならない可能性を説得して、ようやく安寧を得た気分だったのですが、最近すっごく誰かを愛していると思った経験があり、その人の子供ならいつか産みたいな、まで思ってしまった次第です。

でもそれって、結局システムに回収されてる感があって。結婚とか出産はこの国から要望されて植えつけられた願望だと思ってたので、やっと抜け出した先に、またこういう願望に戻ってしまう自分にびっくりしていて。

国はある程度「放っておいても子供は生まれてきてしまう」という前提のもと、今の制度を作ってきたわけです。だけど、最近では、それを自由意志で否定できることが分かり、国が慌てて、LGBTや性教育を否定している。昨年流行った反出生主義なんかも、元々は男性目線で、「子供を産み続けるのは世界にとって良いことなのか」を問う議論で、議論は殆ど男性たちの間で行われていました。どうしても、男性は産めない身体だから、他者に産ませるしかないんですが、女性への度を超えた神聖視にたまに苛立つことがあります。

だけど、なんだろう、あんなにシステムを嫌悪していたのに、いつの間にか愛という名の元に、システムに取り込まれそうになっている自分は、結局個人の愛なんて持てずに、統治するための幻想にとらわれつづけるんじゃないか、と思ってしまうのです。少なくとも個人の愛と、共同体が要請する愛は切り離せないと思っています。

この感覚は、男の人にはなかなかピンとこない部分も多いと思うので、良かったらこの方のブログを読んでみて欲しいです。

田村: 「結婚」とか「出産」は国から要望されて植え付けられた願望、なのかな?生態系ではなく?

りりせ:「出産」は本能的な部分もあるのかもしれない、でもタイミングや相手選び(例えば家柄や金銭の有無で選ぶとか、何歳までに産まないと保証が受けられないとか)があって、全て自分の願望だとは言い切れないと思う。「結婚」は、制度なので、国からの要望だと言って良いと思う。一夫多妻制の国もあれば、10歳でも結婚できる国もある。構造は国に委ねられている。

りりせ:別に政治批判的なことがしたいわけではないのですが、ちょっとこのサイトのその2のPDFを開いてみて欲しくて、

これはざっくり言うと、安倍さんが2007年にやってた「過激な性教育・ジェンダーフリーを考える」活動の一環で、国民の自由意志が過ぎると少子化が進むので、一般的な価値観(女は子育て、介護、男は外で仕事)に引き戻そうとする運動なんですが、

何が言いたいかというと、男女の役割とか結婚願望とかは、政府の意向通りに国民が考えるにはどういう言葉をメディアや教育で使うべきなのかが事細かに議論されていて、2007年時点の国の意向に依ると、私たちがジェンダーフリーについて過激に考えると、家族愛は崩壊するし、結婚は成立しないそうです。

私は資料見て結構目を疑っちゃったし、未だに偽サイトなんじゃないかと疑ってるんですけど、これ偽サイトじゃないですよね…???(誰か検証して欲しい)

田村:えっと、私が前に「生態系」と言ったのは、そもそも個々の国々の制度の前に、前提として「人類という種の存続」があるんじゃないかなと思っていて、そのために「結婚」という制度を設けたのだと思うんだよね。つまり、制度を作り出した人間そのものは、「生態系」の「生存戦略」として、「結婚」という「制度」を作り出したのだから、個人の「愛」は必ずしも全てが「幻想」にとらわれるわけではないのでは?と思ったからで。

人間が作り出した「結婚」という「制度」と、「生態系」のなかのものとしての「人間」に関して、どう思う?

りりせ:そこが最近ぐるぐると考えてるポイントで、そもそも自由意志は本能から切り離されるべきだと思っていて、種の存続は、個人が生きる指針とか意味とかになり得るけど、その恩恵は未来の子供が受けるもので、自分が永遠の若さとか永遠の命を受けるものではない。自分が死んだ後の種の持続可能性に対して希望を持ち続けることは、果たして自由意志なのかな?

それが人としてのあるべき姿なんだという反論は、なんだか気持ち悪くて。私たちは次の世代に繋げていくだけの一時の存在に過ぎないのかと。まぁ、一時の存在に過ぎないんですけどね。

ちょっと逸脱した気もするので、話題を自分で戻します。私の同級生で、家族への愛を常に行動で示している子がいて、弟の誕生日には手紙を書いたり、おじいちゃんが観に来れるように、良い座席のある劇場で演劇をしたり、それはそれはとても愛のある行為で、側から見て凄いなぁと思ってました。私はそういう風に愛を示したことがないから(自分の両親がプレゼントのジャッジとか厳しくて、私のセンスの無さとかを説いてくるタイプだったからかもしれませんが)

だから、私は自分の美意識を熟知した上で何かをして貰った時に愛を感じるし、逆もそう。時間がなくて適当なものを買ってしまった時には、渡す時に既に後悔と謝罪の念でいっぱいだし、どんぴしゃなものを見つけられた時は、相手も私も幸せになれるので、ウィンウィンだなと思って安心します。個人的な愛の感覚は、それぞれの家庭環境によるのかもしれません。

個人的には、適当に選んだ花を貰ってもあんまり嬉しくなくて(酷いですよね笑)
友達に「あらすじを読んで、今回の芝居のテーマは多分"移り変わり"だと思ったから、2色でブーケを作ったよ」と言われた時は、愛しかないなと思いました。

だから愛の形は個々に対して違うものでありたいのだけど、恋愛に関して言うと、急に大きなものに取り込まれてしまう感じがして、たまに怖くなる。

相互的に、自分しか知らない相手の一面を引き出すということが、お互いに代替不可能である理想の関係性なのに、恋愛になると、何故か、結婚や出産などシステム的な枠組みに巻き込まれる事が幸せなのかもしれないという幻想を自ら抱いてしまうというか、目の前の愛する人を代替可能にしてしまうかもしれない、そして結局多くの人が選ぶ道を選ぶことは、どこまでが自分個人の望みなのか分からない。

次回に続く…

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