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叔父の葬儀記


その叔父の息子から電話が来たのは、年明け半ば、母をようやく病院から老健に移動させ、少し一息ついた頃だった。無言の着信。留守電は入っていない。叔父に何かあったのかなと思ったが、急ぎならまたあるだろうと連絡を待った。翌日また着信と留守電。叔父が入院した、と。どうやらがんで入院しているらしい。詳細を語っていなかったので、夜こちらから連絡した。大腸がんでかなり進行しているとのこと。昨年冬から入院とか、コロナにも一度感染したとか、正確な情報が見えにくい。また今はコロナ禍で、医療介護系は直接面会をさせずオンラインも限られている。今度また病院に呼ばれているというので、お医者さんにきちんと聞いてきなさい、それから今後の事を考えよう、と伝えておいた。一応その時に、従姉にも連絡し、持っている情報を共有した。ちなみに叔父の妻は既に亡くなっている。

1月25日午後、また彼より医者からかなり危ない状態なので病院へ、と言われたと移動中の連絡。その後亡くなった、とまた連絡があった。既に話せる状態ではなかったようだが、死に目にはなんとか会えたようだ。病院の中からだったようなので、病院に紹介された葬儀屋(または叔父から言われている葬儀屋)とよく話して準備を全部やってもらいなさい、叔父にとって大事な人への連絡はあなたから直接かけて、親戚はこちらからかけて回すから、と伝えた。M家は従姉から、E家は従弟から回してもらった。大阪のS家の電話連絡先が、母の住所録を見ても×印が付いていて、どうもつながらない、S家の携帯の連絡先らしきものがメモされていたのでかけてみたら、出た。おそらく半世紀ぶりぐらいの会話。でも、覚えていてくれて叔父の事を伝えた。しばらくいろいろ話したが、彼は「行きたいなあ、行けるかなあ」とつぶやいていた。

葬儀の通夜は1月の末。
場所は川口にある葬祭センター。供花のネット予約サービスがあったので、注文した。
適応障害で引きこもりがちな叔父の一人息子Hが葬儀屋とちゃんとやっているか心配だった。ここで父親の葬儀を彼がひとりで準備できないと、これからの彼の自立も相当危うい。従姉と話して、通夜まで見守ることにした。式当日、実は叔父が生前にここの葬儀場の互助会に入っていて、式のセレクトとお金も事前に振り込まれていることを知って安心。

通夜の日、極寒強風の夕方、受付がいないと手伝うつもりで30分前に行ったが、既に近所に住むE家の次男夫婦が立っていた。Hが電話してお願いしたようだ。ちゃんとやっている。控室に入ると、老人の男性が一人座っていた。まさかと思い、受付で名前を聞いてみると、やはりS氏。半世紀ぶりの挨拶をすると、最初誰だかわからなかったようだが、すぐ気づき歓談。彼のここ数年の大変な病歴と回復の経緯を聞く。また彼には20代時に、大阪で働いていた叔父との多くの思い出があり、これが最後の機会だろうと思ったようだ。私達東京の親戚には彼を知る人が少ない。今回、S氏のアテンドは、ほぼ私がやることにした。

私、M家から二人、E家から二人、それ以外は大学職員時代の友人、大学時代の友人、外国人の知り合い達が少しずつだが来た。小さく、静かな通夜だった。T家に残されたぎりぎりの人間関係。通夜振る舞いで、息子は親戚たちの横に座って黙って話を聞いていたが、やがて叔父の友人席へ向かっていった。大阪から来たS氏は近くのビジネスホテルを予約していて泊まった。

翌日の告別式は、相変わらず寒かったが、晴天で助かった。今日は妻も休みを取り一緒に。親戚関係はM家が一人に変わった以外は、ほぼ一緒。やはり住まいも近所であるE家は叔父親子に一番近い関係。妻が夭折し男手ひとつとなった叔父を、近所だったE家の母が支えていたからだろう。亡くなった彼の母親の兄弟が来ていた。初めて会う。僕らとは少し距離を置き、静かに座っていた。

淡々とした告別式と初七日の式、最後に小さく流れる音楽と共に弔電が読まれ、叔父の棺に皆が近付き祭壇の花を入れる。最後の別れの時、S氏が叔父の棺に近づき、彼の顔を触り「Hちゃん、さよなら」と言い、泣いた。息子はただ黙っていた。

棺を霊柩車に移し、火葬場へ移動。以前川口市には大きな火葬場がなく、荒川河川にある戸田斎場が定番だったが、新たにできたようだ。

川口市めぐみの森

到着してその大きさとデザインに驚いた。なんと設計者が伊藤豊雄。入口から火葬入り口への導線、待合室、外に広がる池のランドスケープまで、まるでどこかのリゾートホテルだ。異界に送るための空間デザイン、ということだろうか。超高齢化社会の予算配分は、こういうところに加算されていく。棺を運ぶ台車はコンピュータ&通信制御、告別室とそこで送りこまれる炉への扉は、まるでSF映画に出てくるようなイメージ。その空間で唱えられる僧侶の読経の響きと共に、私は少なからず衝撃を受けた。思わずインド・ガンジス川で燃やされ、やがて犬に食われていく藤原新也の写真が頭をよぎった。「メメント・モリ(死を想え)」。ここまで管理された「死」は「幸せ」なのか。「無」に戻るのに「幸せ」も何もないのか。

火葬を待つ控室で、妻に思わず「俺はここで燃やされるのはいやだなあ」とつぶやいたら、「もう死んでるんだからわからないわよ」と言われた。

火葬が終わり、また同じ空間で骨を拾う。映画のワンシーンみたいだ。伊藤豊雄はまさにそれを狙っているのだろう。文明批判さえ感じられる仮想的だが生々しい死の演出。凄い。

帰りのバスは早く、また葬祭センターに戻り精進落とし。皆無言で黙々と食べていた。喪主の彼が食べものをなかなか口につけない。前に座る僕や横に座る従姉が「食べなよ」、と励ます。やがて締めになり、彼が訥々と最後のお礼の挨拶。もう陽が傾き始めていた。彼の家への骨と写真の移送はE家の車が行ってくれる、とのことなので、ここでお別れとなった。大阪のS氏はこれからJRで東京駅に行き新幹線で帰阪。明日以降、定期がん検診があるらしい。大阪行くときはまた連絡します、お元気で、と伝えた。その後は私と妻と従姉で施設にいる母の事とか、弁護士だった従姉の亡き夫のこととか、今の生活の事とか話しながら電車で帰る。なんとか最後まで行きつき、ほっとする。適応障害の生活が長い息子、今回はよく頑張ったなと思う。これからどう自立していくのか、親戚で見守りながら、ゆっくりやるしかないな、と思う。一人ひとりの人生のスピードや価値観は違う。まあ、とにかく生きていければいい。

叔父さん、お疲れ様! 安らかに。


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