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藤井風『満ちてゆく』から映画『四月になれば彼女は』へ

藤井風の音楽を聴き始めたのは、コロナ期だったと思う。在宅での仕事の連続で、頭の活動に比して身体が活動を低下させていく。そうなると当然のごとく心身のバランスが崩れ、不調をきたす。無理にでも有酸素運動を、と近くの公園をジョギングする習慣がついた。人との距離も保たれる。しかし人恋しくはなる。そんな時、ジョギング用の音としてyou tubeから偶然耳に入ってきたのが彼の曲だった。

最初はオリジナルより洋楽カバーアルバム『help ever hurt cover』。編曲とピアノ&ボーカルのあまりの完成度の高さに驚きながら、ヘビーローテーションしていた。20世紀後半の洋楽を聴き続けてきた私の世代には、彼の音はあまりにも親和性が高い。なじみ深いのだ。おそらく音楽好きの彼の父の影響下の元、とんでもない才能が育っていったのだろう。その後、ずっと彼の音楽を探しては聴いていた。彼の音楽は音と言葉(と映像)が一体化して、より大きな表現世界(意味)を創り上げる。常に方向性にぶれがない。普遍的で、懐かしく、包容力に溢れ、世代を超えた人生の物語を想起させる。やがて、彼は日本のみならず、アジアへピアノ・ソロツアーに出て、世界に認知され始めた。そんな彼が今春出した新曲MVが『満ちてゆく』だ。

『満ちてゆく』MVは、後述の映画『四月になれば彼女は』のエンディングテーマ曲として制作されているが、このMV自体がもうひとつの映画の予告編であるかのようだ。彼の音楽に通底している仏教的な哲学観とR&Bへのリスペクトが見事に人生の物語として凝縮された作品となっている。老境において振り返るいくつもの過去の鮮烈な記憶がつながり、それらを全部抱擁するかのように肯定し「満ちてゆく」感覚。諸行無常を受け入れる「愛」の発見。彼は、初めて恋愛の曲を作ったと言っていたが、これはもはや人類愛の曲に近い。どこまで老成しているんだろうか。驚くばかりだ。

この曲を映画館でも聴いてみたい、と映画『四月になれば彼女は』へ観に行った。ある結婚直前の精神科医の男の元に10年前の初恋の相手からの地の果ての旅の手紙が届く。それはかつての二人の約束の場所。そして、婚約者の突然の失踪。二人の女性の謎の行動に動揺しながらも、彼はその謎を追いかけ始める。それは自分の過去の忘れてきた記憶であり、またそれにより今の自分を創り上げてきた原点でもあった。最後「彼ら」は、それを受け止めて死、または生を歩む。これは一見恋愛映画のようで、死生観の映画だ。残酷だがカタルシスに満ちてもいる。そう、「満ちてゆく」映画だ。

映画の道具立てとして大学時代の写真部での出会いがある。なんと、アナログ=フィルムカメラだ。彼らはそれで撮影し現像していく。それらは一期一会で物質性に満ちている。刻印された感覚の経験の記憶がそこに宿る。「フィルムは呼吸している」というセリフがあった。いい言葉だ。デジタルは人から経験を奪ってしまったのかもしれない。

もうひとつの道具立ては婚約者が獣医だという設定。彼女の言葉は次々と彼を刺激する。
「人間は言葉があるからダメ」「愛を終わらせない方法は、手に入れない事」
彼女は愛を与え続ける。だから愛されることを知らない。精神科医の彼は、実は自分の事が一番わかっていない。そしてそんな自分を放置してきた。

初恋の人から旅の手紙というのも、昭和世代にはなかなかノスタルジックでいい。私たちはもう一度、紙の写真と手書きの手紙の力を再確認する時期に来ているのかもしれない。

映画の最後、『満ちてゆく』が流れる。MVの映像とは別に、曲と歌詞がこの映画に重なる。不思議な清涼感が映画館に溢れる。

監督はこれが初作品なので、映画としての重厚感はなく映像詩的な撮り方になっているが、観客は皆それぞれ自分の人生の物語に引き付けてこの映画を観るだろう。そして想い出し考える。そういう映画だ。私も自分のつたない青春期を想いだして涙ぐんでしまった。

帰りの夜の新宿の街が、20代の時のそれに重なって見えた。

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