本を捨てることができない。

自宅の仕事部屋兼書斎に本が溢れかえっている。10代のころから読み始めた本を、基本捨てずに置き続けているからだ。もちろん、買って読み失敗したと思ったものは、定期的に古本屋に送って処分している。しかし、それでもまあ置いておこうと思う本が多すぎる。人生の時間のかなりの部分を、本と音楽と映画に費やしてきたせいもあって、どうしても本の背表紙を見ると、その内容のみならず、それを買って読んだ時の日々が、その時代の記憶・感情とともに蘇るからだ。この背表紙と視覚とタイトルと脳のインデックスの関係は見事なものだと思う。そして書物というメディアの形態と出版というシステムの見事さに、今なお感嘆している。これは21世紀のデジタルネイティブたちには、もう引き継がれることはないのだろうか。

小学校に入る前から、絵本をよく読んだ。父が買ってくるからだ。父は重度の活字中毒者で、家には既に本が溢れていた。私もその洗礼を受け、空いた時間は絵本を読むようになった。両親が共働きだったので、一人家で留守番することも多かった。しかし、テレビより本、そういう習慣が身についていった。

中学・高校で詩や文学の洗礼を受け、読み漁った。やがて哲学・歴史・科学の分野に手を伸ばし、心理的な読書動機は、知識欲求への読書へと移っていった。自分の狭い日常生活に、湯水のように広大な世界を魅せてくれたのが、本というメディアだった。まだパソコンもインターネットもなかった時代だ。

大学を出て出版社に就職し今度は作る側に回ると、本の素材と製造過程が見えてきた。編集というソフトウェアが果たす役割がいかに重大かを知った。この世界に誕生し続ける本の洪水を浴びながら、次の1つを誕生させる作業。パブリッシュの意味と責任。毎週のように都心の本屋を回遊していた。さらに本の濫読は増した。読みたい本から読むべき本へとその雑食性は広がり続けた。もはや本当にピュアな動機で読みたい本などあるのかわからなくなっていった。仕事をするために吸収するような読書生活が続いた。

90年代の後半から商用化・普及が始まったインターネットは、情報や知識の世界を一変させた。編集作業の紙への結実から画面への結実は、コンテンツの持つ物質感を失わせていった。

21世紀を迎え、編集職に加え大学での講師職が加わった。とりあえず請われたジャンルの内容を現場のリアリティを持って語ればよかったのだろうが、それではあまりに安易だと思い、自分の読書遍歴、職業遍歴の棚卸を行った。そのために最も助けになったのは、過去の本の山だった。知的好奇心の原点はどこにあったか。どのような道を歩いてきたか、迷っていったか、引き返したか、もう忘れてしまっていた自らの痕跡が、本棚の背表紙の風景に残されていた。それらのタイトルと共に想起する記憶。脳の長期記憶は、言葉それもある物質性を備えた言葉に反応しやすいのかもしれない。

人生の前半に編集者として本に関わり、後半に教育・研究者として本に関わる。今なお途上だが、ネットから日々莫大な情報を享受しながらも、私にとってそれらは情報以上の価値を持ちづらい。フローし続けるコンテンツとストックされるコンテンツ。宙を舞う透明な記憶と刻印され混濁する記憶。両者に挟まれながら、私は今もなお本を捨てることができない。雑然と並んだ本棚の背表紙は、確かに私の人生の重要な一部だからだ。


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