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2016春 佐賀九年庵訪問記


父が亡くなり、5ヶ月が経った。葬儀から香典返し、たくさんの名義変更や社会保障関係の諸手続きで、忙殺された。さらに追い打ちをかけたのが、まだ退去してくれない荻窪の親戚の状況だった。

荻窪明け渡し裁判は、昨年夏前にようやく和解という形で決着し、9月末までに退去、遅れた場合は遅延損害金をもらう、という和解調書を交わした。にもかかわらず、N子さんは9月末になっても出て行こうとしなかった。関わってもらっている弁護士のH氏に、強制執行の手続きを取ってもらうようお願いした。様々なことの先がまったく見えなくなり、母の疲労も限界に近くなっていた。まったく仕事に集中できない。そんな10月が始まった頃、突然父が入院先で逝った。年内か持っても来春ですよ、と医師に言われていたので、終末医療の病院への移転の手続きを終えた直後だった。

それから3ヶ月、葬儀から四十九日、遺品整理をしていく中で、父の人生を改めてまざまざと見せつけられた。明治時代、愛知県から大学入学のため上京し、東京で就職した祖父の来歴、その彼に嫁ぐ事になり、佐賀県から上京してきた祖母の来歴を、生前の父は断片的にしか話さなかった。どちらも私が小学生までに亡くなっていた。まとまった文章にしようと思えばできただろうに、されていない。妻である母も多くは知らなかった。親戚関係との付き合いも極めて限定的なものだった。いや、むしろ意図的に距離をおき続けていたかのようだった。

四十九日に愛知県の菩提寺、祖父の育った、また戦争末期家族が疎開した街、T市に再訪した。父の幼なじみだというKさんに会い、また私たちの知らない父の幼少時の姿を知る。おそらく彼女から見える「義兄」と、母が共に生きてきた「夫」と、僕が知っている「父」はみんなすこしずつ、いやかなり違う。しかし、同じ男だ。人の人生とは、そういうものだ。すべてを知るものなどいない。

実は、祖母の故郷、伊丹家の菩提寺のある佐賀には、まだ一度も行った事がなかった。僕自身も意図的に遠ざけていた。それらが僕の人生になんの影響も及ぼしていないからだ。知ってどうなる。大事なら、あなたは何故僕にきちんとそれを教え、向かい合わせようとしなかったのか。あなたは何を考えていたのか。やがてそれが、父の死後のぼくに残された大きな課題となった。

まずは、佐賀に行こうと決心した。
3月の半ばの平日、早朝の新幹線に乗り、5時間弱で博多へ。そのまま長崎本線の特急に乗り換え、佐賀駅へ着いたのは昼頃だった。駅前のホテルに荷物を預け、食事をとる。また駅へ戻りタクシーで、伊丹家菩提寺である専修寺へ。あえて事前に連絡は入れていなかった。

思ったより、こじんまりとした寺だった。ちょうど、宅配の業者が訪問していた。彼にご家族が在宅であることを確かめ、中へ入った。突然の訪問に、住職夫妻は驚いたが、伊丹家のことを一番よく知っているという、前住職(彼の父)の奥様を呼んだ。ちょうど、買い物から帰ったところだった彼女は、大変厚い歓待をしてくれた。近隣に住む残された唯一の親戚、高齢のS子さんにも連絡を取ってくれ、電話ではあるがしばらく話した。また、近年参詣した大阪の親戚N家の話と手紙・写真や、同じ現在大阪に住む別の親戚T氏からの封書などを見せてくれた。私は、伊丹家の本家伊丹弥太郎のひ孫ではなく、その姉が婿養子として迎え入れた伊丹誠一との間のひ孫にあたるということは、この間の元戸籍をさかのぼっていたことから少しは知っていた。伊丹弥太郎の父、伊丹文右衛門の直系ということになるらしい。

伊丹弥太郎の墓(代々の墓)は、専修寺の本堂の手前左に、他の墓とは別に設置されていた。しかし、かなり年月が経ち、朽ち始めているようにも見えた。

本家の末裔は、今千葉県木更津に住んでいるとのこと。詳細は不明。誰も会っていないらしい。ひとしきり話した後、裏の墓地にある伊丹誠一の墓に行く。そこには、更に朽ち果て弱々しく佇んだ墓石があった。おそらく誰も供養をしていないのだろう。私のもうひとつの先祖だ。
その後、住職と前住職の奥様が、伊丹文右衛門が私費で建立したという本堂の由来と建築のすばらしさを説明してくれた。当時としては素材・工法とも最高のものだったらしい。線香をあげた後、紹介された別邸九年庵のことで、県庁に話をつないでもらった。

県庁は、タクシーで1メーターのところにあった。森林管理課の担当に話すと、九年庵に隣接する神社の宮司に連絡をとってくれて、明日の午前中に神埼市にある九年庵を訪れることになった。県庁職員が妙に丁寧だった。九年庵が佐賀県の観光資源の重要なひとつになっているからだろう。

県庁の隣に、県立図書館があった。かなり古いもので、郷土資料室に寄っていろいろ探してみたが、あまりわかりやすく整理されていない。佐賀県史のシリーズがあったが、そこまで見ている時間もないので、資料データだけメモし出る。1Fの横におしゃれなカフェがあった。エコ&ヘルシーがコンセプトの店で、県でやっている様々なカルチャー関連のチラシ、フリーペーパーも置いてあった。運営は、20代ぐらいの若者たち。少し話した。

そこから、佐賀城、佐賀テレビ、県立博物館(休館だった)あたりまで、ゆっくり散策しながら歩く。ここが佐賀市の中心部であることは間違いないのだが、愛知県の菩提寺に行った時よりも長閑で、静かだ。下校途中の中学生と老人ぐらいしか歩いていない。みんな車だ。陽が傾いてきた。

ホテルに帰り、夜また駅前まで食事に行く。しかし、駅前だというのにほとんど店がない。閉まるのも早い。ホテル周辺にいくつかの居酒屋がある程度。駅を中心に街が作られていない。車社会なのだろう。明日は早いので、最寄りの居酒屋に入り、さっさと寝た。


翌日早く起き、一旦荷物を佐賀駅のコインロッカーに入れて、JRで神埼まで電車で行く。20分ほどの道のり。車窓からは、見渡す限りの田園風景が続く。神埼駅で降りる。観光客向けにきれいに整備された駅だが、平日のこともありほとんど人気がない。駅前のロータリーには、不思議な女性の像が。近づいて見ると「卑弥呼像」だ。左の方向を向き、何かを指し示している。その方向には、広大な吉野ケ里遺跡。帰りに寄ってみよう。

駅前には、タクシーが一台のみ。さっそく乗車し、仁比山神社と九年庵へ。車中、運転手と話す。4月に仁比山神社では、12年に一度の祭りがあるらしい。その準備で、あそこは大忙しですよ、と。村が久々に賑わうことを、嬉しそうに語っていた。

少し早く着いたので、周囲を散策していると、10時前に神崎氏の観光担当者の女性が来た。40代ぐらいの小柄な女性だが、大変しっかりとした印象。さっそく、いろいろこの場所のことについて話し始める。観光文化財についての専門職らしい。そういえば、昨日県の担当者が、「九年庵のエキスパートですよ」と言っていた。

先に神社の境内に上がり、社務所で宮司に挨拶する。祭りの準備で舞台の建設や周辺の整備で大忙しだった。息子が少し応対してくれた。

神埼市の職員の女性と庵の中へ。春秋の桜・紅葉の特別観覧期以外は公開していないようだ。1時間ほど、その歴史、工法、現状と今後について、詳細な解説を聞きながら廻った。庵の庭先からゆっくり下り斜面に広がる散策庭園。伊丹家の別邸であり、ゲストハウスでもあったようだ。

訪問の最後に、かつて祖母も幼少期よく座り、はるか雲仙まで見えたという縁側からの眺望を堪能した。明治末期の事だ。3月下旬の、雲ひとつない穏やかな日だった。祖母の長閑な幼少の日々は、祖父との結婚、上京により、大きく変貌したのだろう。私の幼少期の祖母との僅かな記憶を辿ってみた。様々な想いが、湧いては消えた。

その後、案内者の車で吉野ケ里まで乗せていってもらい、そこで別れ、遺跡公園をしばらく廻る。代々木公園ぐらいはあろうかという広大な遺跡敷地はどこまでも閑散とし、幾人かずつのグループ客の話し声以外は、風の音と鳥の声しかしない。維持費が大変だろうな、と余計な心配をしてしまった。2時間ほどで回り終え、公園レストランで遅い昼食。土産物を買う。その後、しばらくテラスに出て、この広大で静寂な景観をぼやっと眺めていた。陽が落ち始めた。

佐賀駅に戻り、コインロッカーから荷物を出し、特急で博多へ向かう。明日は、博多の県立図書館へ。郷土史資料を探しに。

(続)


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