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半蔵門の細長いビル

1980年代の半ば頃、半蔵門駅の地上出口から歩いてすぐ、細長いビルがあった。一台しかないエレベーターに乗り上ると、私のバイト先があった。
学生時代、私はここにあった情報誌ぴあ編集部でアルバイトをしていた。ちょっと長く大学生をやってたせいもあり、留年確定後、自分の金は稼がなきゃと就活がらみで動いていた。かつての友人の紹介で入れてもらった。希望の映画担当はいっぱいで、美術ならということでやらせてもらった。

当時のぴあは、まあいかにもの学生企業で、正社員なんて少しで契約社員とバイトだらけ。映画担当は、映画マニアか&映画撮ってる連中、演劇担当は劇団員たち、音楽担当はバンド連中、美術担当は美大系と、ようするに一石二鳥を狙ったメンバーがほとんどだった。東京の文化シーンの情報をバイトと称して、近づこうというノリだった。

姉が芸大を出て、教師をやりながら作家になろうとしていたので、横目でアートシーンは追いかけていた。当時は、現代美術華やかなりし時代で、姉もどんどん作風が抽象化していき、「なんだこりゃ」アートに突き進んでいた。今だから、そう思うが。80年代は、とにかくとんでもない実験領域に、東京のカルチャーが入り込んでいたのだ。

当時のぴあは、選択&評論系の情報誌「シティロード」とは違って、「なんでも掲載」がポリシー。大作家であろうと、大学生のグループ展であろうと。おかげで、東京中の画廊の名前・場所・傾向を覚えてしまった。机の横には、当時のバイブル「美術手帳」を常備。美術館の招待券も大量に送られてくるので、時間のある時はいそいそと見に行っていた。

しかし、取材原稿は正社員の人が中心。バイトは、わずかな字数の解説部分等に、凝縮した言葉を詰め込む。写真のキャプションのようなものだ。また、当時としては斬新な電算写植(DTP=コンピュータ組版の走り)システムを導入していたので、コンピュータ室にいるSEさんに、最終原稿と指定紙を渡し、後はお任せ。印刷所とオンライン入稿、校了だった。

一番覚えているのは、賃上げストライキの風景。
正社員たちが「今日は時限ストやるから」と事前宣言。指定時刻になると、ビルの一階で集まりシュプレヒコール。その後、最上階の社長室へ代表団が行き、要求書の提出(をしていたらしい)。その間、バイトたちは、机に座り休憩。しばらくすると、戻ってきて、また仕事。まあ、雑誌が出ないと大変だからね。果たして、あれで賃上げは達成したのだろうか。

もうひとつ笑えたのが、自主映画担当の人々。となりのシマで、比較的女性が多かったのだが、自主上映の映画には、いわゆる名画座系の古い映画以外に、ピンク(成人)系映画も大量にあった。まだ首都圏に、そういう映画館が残っていた頃だ。タイトルやスケジュールの情報収集や確認のため、映画館に電話をする時がある。編集部にうら若き女性の声で響き渡る数々のピンク映画のタイトル。最初は拒否していたバイトの女の子たちも、いつの間にか慣れてしまっていた。まあ、しかしああいう映画のタイトルの滑稽なこと。よく考えつくな、と聞きながら思っていた。

そのバイトは、1年たたずに辞めた。そろそろ本気でモラトリアムにも終止符を付けなきゃいけない時期を感じたからだ。研究者人生か、マスコミ人生か悩んだ末、やはりマスコミに向かった。やはり、都市文化の現場にもっと飛び込みたいという思いが募ったのだろう。

ちょっとした選択のつもりが、人生の方向を大きく左右することは、よくあること。僕にとっては、あの編集部での雑用バイトの日々が、外の社会=仕事場への最初の扉だったのかもしれない。

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