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「東京大空襲」と『パーフェクト・デイズ』と母の戦後


1945年3月10日未明、東京の下町一帯に300機を超えるアメリカ軍B29爆撃機の大編隊が来襲し、焼夷弾による大規模爆撃を行った。この「東京大空襲」により、木造密集住宅地帯だった本所・深川・城東・浅草などを一夜にして焼き尽くし、そこに住んでいた10万人近くの人々を殺戮した。

私の母は、この東京下町の墨田区本所で生まれ育った。今でもある外出小学校の近くに実家があり、父は公務員、母は小さな店を営んでたくさんの子供たちを養っていた。小さな工場や商店が並び、後はみんな長屋のような狭い家にひしめき合って暮らしていた。当然貧しく子供たちは食べ物は乏しく、路地で遊び、空襲の度に近くの防空壕へ避難する日々だった、と言う。
終戦の年の春、小学校の進学や卒業式を控え、当時各地へ疎開していた子供たちが一時帰って来る時期だった。母の家族は何かを察したのか、当時避難していた埼玉の疎開先から帰らなかった。そして、3月10日の空襲が起こった。母の家族は奇跡的に助かったのだ。

今年は、この3月10日が日曜日だったので、数年ぶりに犠牲者追悼式関連を見に行った。浅草は外国人の観光客で賑わっていた。おそらく80年ほど前、ここが一面の焼け野原になってしまった事など知る人はほとんどいない。浅草公会堂で「東京大空襲資料展」をやっていたので、入る。当時の空襲の詳細な記録や写真、遺品、資料等が展示され、年老いた地元ボランティアのスタッフが運営・案内していた。奥では、この空襲を語り継ぐために取材・制作されたアニメの上映と生存者の証言を交えたミニ講演が行われていた。当時の戦災地図が展示されていたので見る。母の住んでいた本所はまさに被災中心地区で、真っ赤に塗られていた。完全消失、何も残らなかったようだ。母は既に90を過ぎているので、この時代、このエリアに生きていた人は、もう数えるほどしかいなくなっている。先月この空襲関連を外国人が撮影したドキュメンタリー『ペーパーシティ 東京大空襲の記憶』を観た。最後の生き証人たちを取材撮影した映画だ。しかし、この映画を上映時には、その人たちも亡くなってしまったらしい。

『ペーパーシティ 東京大空襲の記憶』



浅草を離れて、バスで母が当時住んでいた石原町エリアへ向かった。その近くに横網町公園がある。ここには「東京都慰霊堂」「震災記念堂」があり、関東大震災と東京大空襲を慰霊する場所だ。静かな公園の中央付近に色鮮やかな花で飾られた花壇がある。この空間の内部に「東京空襲犠牲者名簿」がある。母は以前ここへ私と来て、小学校時代の友達の名前を探した。

こうして家を亡くした母の家族は、戦後疎開していた埼玉で育ち、女学校を出て、手に職をとタイピストの訓練を受け、なんとか銀座の会社に就職できた。そこで山の手育ちの大学出の父と出会い結婚する。戦後の復興は目覚ましく、焼け野原だった東京はまたたく間にたくさんのビルが立ち並び、高度成長の時代を迎え、私が生まれた。私が今ここにいるのも、ある意味運命と偶然の賜物かもしれない。


実はこの日、もうひとつ行ったところがある。私の大好きな映画監督ヴィム・ヴェンダースの新作『パーフェクト・デイズ』の主人公、役所広司が演じる平山が暮らしていたアパートのロケ地だ。ネットで場所は特定されていた。墨田区押上を経て亀戸へ向かうバス路線の途中、ある神社の裏路地だ。神社の周辺を少し歩くと、あった。




まさにあの佇まい、時間が止まったかのようなエリア。少し大通りに出るとそこは現代なのだが。よく見つけたものだ。今も誰かが住んでいるようなので、そっと写真を撮った。私以外にも数組ここを探してたどり着いた人たちがいた。夕刻前、陽が落ちるとここはあの映画のライティングで別世界に変貌する。まさに映画はマジックだ。

映画の内容は、既にどこでも語られているだろうからあえて語らないが、なんらかの「過去」を持つ主人公の平山は、ここで神社の掃除の音で目を覚まし、アパート前の自動販売機(実際はない)で缶コーヒーを飲み、渋谷区のデザイナーズトイレを作業車で掃除しに行く。仕事が終わり自宅に戻れば、自転車で近くの銭湯に行き、その後墨田川を渡り、浅草駅の地下街の小さな居酒屋で少し飲む。この日常の中にいくつかの「出来事」を配置しながら、映画は極めて寡黙な彼の隠された人生や想いを映し出していく。なんと繊細で映像的な世界だろう。この手の映画は大好きだ。そして過去と現在と未来が入り乱れて共存している東京下町の風景は、監督にとって最高のロケ地だったのだろう。映画とドキュメンタリーの境界線上を行き来した作品だ。

もう私の母はこの映画を観ることのできる気力も体力もない。ただ、もし観たらどんな感想を言うのか聞きたかった。自分が育ったこの場所を想いだして。

東京は、これからもいくつもの時代を織り込みながら歴史を痕跡していく魅力的な街であり続けて欲しい。おそらくインバウンドの観光客たちもそれと出会いたいのだろうと思う。

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