文化人類学の面白さ~内からみる学問~
文学部の中で人気な学問といえば?
心理学
社会学
哲学
歴史学
言語学
世の大半の文学部生は主に上記の学問を選択する。いや、これらを学ぶために文学部に入学するのだ。人の心の動き、行動、私たちが生きている世界の理とは何か、生きる意味とは、今まで人は何をし、どうしてそうなったか。数学や科学のように確とした答えは見つからない。
故によく、「文系科目を勉強する意味は?勉強して役に立つのか」という議論が生まれる。
2015年にこの議論を代表する問題が起こった。「文系不要論」である。文部科学省が「教員養成系学問、人文社会学系学問から社会的要請の高い学問への組織変換」を要請する文書を出したのが発端だった。自然科学や医学のように日常に応用できる実学とは反対に、虚学と呼ばれる人文社会学系は社会的・国家的な利益を産まないと考えられてしまう。つまり、個人の趣味の域を出ないものだと。
ここで、私の人文社会学系学問に対する考えを話そうと思う。それは「良心」である。自然科学に良心がないといっているわけではない。常に前進を求められ、後ろを振り返る余裕がないのが自然科学である。「世界最先端」「世界初」誰も到達したことのない未知の領域へ挑むのが自然科学の学問であろう。
対して人文学系は時間をかけて答えのない問題について考える。「本当に正しいのか」「正しいとは何か」「過去に同じ過ちを犯したことはないのか」。
自然科学の分野の専門家には哲学を愛した者も多くいる。人文学系と自然科学系は相互補完的なもので、片方がなくなると車輪が外れた自転車のように走行不能になってしまう。そういう意味で、人文学は自然科学の片割れなのだ。
文化人類学という学問
文化人類学という学問を聞いたことはあるだろうか。
「名前は聞いたことあるが、何をしているのかよくわからない」という答えが聞こえてくる気がする。
私は大学でこの「よくわからない学問」を専攻している。はっきりいってこの学問は専攻している私自身もよくわからない。研究内容はみんなバラバラで、AIの研究をしている生徒がいるかと思えば少数民族の研究をしている教授がいたりする。完全な自分の興味を追求する学問である。
どんなことを研究するのか問われれば答えに困るが、方法と目的ははっきりしている。「特定の文化圏の中に入って」いって「自分が当たり前だと思っている世界を問い直す」のである。
この学問では「客観性」は重要視されない。数値を測ったり統計を取ったりせず、興味のある文化圏に赴き、人と話し、自分の中で変わっていく価値観を文字に起こす。
文化人類学者に必要な力は「専門家になっても学者にはならない力」だと私は思っている。研究協力者と学者という線引きをした途端、私たちは部外者になってしまう。自然な会話からしか日常は見えない。自然な会話の中から物事の本質を見つけ、ふわっとした人間的な感情を誰でも理解できる文字にする。
これが意外と難しい。
往々にして、日記のようなつかみどころのない論文になるか、無理に論理の方に当てはめてしまう。学生は主にいかにして日常の中に課題を見つけ、フィールドに溶け込み、論文を書くのかを学ぶ。理論は実際にフィールドワークをやった後に考えたらいい。
人は自分の持つ固定概念を変えることは難しいし、違うフィールドに赴くのにも勇気がいる。故に自分の持っている理念でしか物事を見れなくなってぶつかり合ってしまう。そういう時に文化人類学の本を読むとハッとさせられることがある。
「社会人」という言葉を持たない人たちがいる。自分の子供に愛情を持たない部族もある。
必要なことはこういう人たちが「いる」ことを知ることだ。
私は先生の言葉で印象に残っていることがある。
「本を捨てて街に出ようという言葉があるが、本を持って街に出る方がより多くを得ることができる。」
新しいフィールドに出る勇気も時間もお金もない人が大半だ。ならば、踏み出した人たちの言葉を聞けばいい。文化人類学は見えていない別の世界を見るための扉のようなものなのだ。
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