「忙しい」について
これは9ヶ月くらい前にわたしがメモ帳に書いといたものなんですが、読み返してみたら思いのほか納得できたので、記事として残しておくことにしました。
「忙しい」について
忙しいのがいいこと、という風潮がある気がする。
わたしはどちらかというと「忙しい」のはいいことではないように思う。
適切な言葉が見当たらないので、こう表現すると「時間にある程度余裕がある、適度な忙しさ」はいいとは思う。
「忙」という漢字が表すように、忙しいと心を亡くす、つまり心に余裕がなくなる。
時間に余裕がないから心にも余裕がなくなる。
そうするとどんどん視野が狭くなっていき、自分を追い詰めることになる。
自分と向き合う時間も余裕もなくなる。
すると自分を見失う。
自分は何をやりたいのか?自分はどう生きていきたいのか?
そういったことが忙しさに埋もれてわからなくなる。
それが続き、自分の人生そのものが誰の物かわからなくなる。
忙しいというのは、チャンスを逃すことでもあると思っている。
せっかく今しかないいいチャンスを、時間がないという理由でみすみす逃してしまう。
そのチャンスがどれだけいいチャンスなのかは推し量ることが出来ず、実際に行ってみたりやってみないとわからない場合も多い。
つまり、いいチャンスかどうかわからない。
そういう場合はリスクを負うことになるのでやる気なんてそんなに湧かないと思う。
そしたらより確実な、今目の前の「やるべきこと」を選ぶのは自然なこと。
でも、それでいいのか?
自分の心の中にある、忙しさの中で埋もれてしまった「本当にやりたいこと」を発掘してあげて欲しい。
死ぬ時に後悔したくないのなら。
そしてそれを手助けしてくれる人はいたとしても、発掘できるのは自分だけだし、やりたいことを実行に移していくのも自分自身。
思うに、自分の人生なのにどこか他力本願の人が多いように感じる。
自分の人生に責任を取れるのは自分だけ。
本当にやりたいことに気付かず、気付こうともせず、人生を無意味にするのも自分自身。
逆にやるだけやってうまくいかせるのも自分自身。
失敗するリスクも当然あるけど、失敗から学べることは多い。
まぁ、失敗なんて普通はしたくないだろうけど。
よく「成功したい!」って言う人がいるけど成功の先で得たい物はなんなのか?
成功したからって幸せにはなれないし、冨も名声も一瞬悦に入らせてくれるだけの単なる道具に過ぎない。
自分が本当に求めているものは何なのか。
それをじっくり考えるだけの余裕があれば、もっと1人ひとりの人生が自由でその人らしいものになるのかなあ、と思う。
ただし、考えるのは基本的に1人で。
自分がどうなりたいかを本気で考えられるのは自分しかいないから。