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舞台メディスン その人によって効く薬は変わる

舞台メディスン。2024年。白井晃演出。田中圭主演。世田谷パブリックシアター シアタートラム全44回。その後、兵庫、愛知、静岡でも上演。


この舞台を3回見てきた。つまり3/44。
しかし、なかなか言語化できなくて、3回目にしてようやくnoteに向かえた。覚えてる限り書き記す。それぞれの回で感じたことと最後に3回みて私なりに意味付けしたことを書きたいと思う(なお、舞台の内容に大きく触れているのでご了承お願いします)。
 前提として他のnote見ていただいてる方は分かっていただいてると思うが、私はろう者だ。口の形を読みながら補聴器が増幅した音を手がかり(と言ってもほとんどは意味の分からない音だ。大きい太い、笑い声と判別してるくらい。アイルランドがああいえお、と聞こえるような。ましてや舞台では音が反響しすぎてほぼわかる音に聞き取れない)にして理解している。音楽は耳には入ってくるのだけど、歌詞はもちろん分からない。ベイビみたいな歌詞がある歌を奈緒さんが歌ってるみたいだがもちろん分からない。でもなんかリズミカルだったなとか余韻を覚えてる程度にはわかる。舞台ではオペラグラスを手放さず、ここぞというとき口の形を読んでいる。
前もって劇場による聴覚障害者向けの台本貸出サービスを受けている。ただし初回はあえて読まないで臨んだ。

1回目 5/10 マチネ 


L列。一番後ろなのもあって、全体がよく見えた反面、細かい表情や口の形はオペラグラス頼りだった。

途中からジョンの感情がほとばしったとき、ジョンが自分の中に入ってきて、カーテンコールで田中圭さんがいつもの表情に変わった時、それを見たことで、身体がビクッとなり、私の中から何かが抜けたように感じた。身体がこわばっていて猫背で、一瞬言葉が喋れなくなっていた。立ち上がってスタオベに加われたのが奇跡なくらい。実はこのnoteのトップの写真に載せている、舞台と外をつなぐ通路を出た時に、完全にビクッと抜けていった。私という人間に戻った。
聞き取れなくて台詞が全然わからないと感情そのものを受け取り、それが自分に棲むんだなと。
メアリー2(ロブスターのほう)がダンス、歌、パフォーマンス、風を受ける動作…縦横無尽、獅子奮迅、すごい動きで、対してジョンは静かだなあと思っていた。しかしそれは違った。彼は抑圧されていたのだ。
ジョンの愛情を受けたいだけなのにという気持ちと、自分の頭は自分のものじゃなかったという魂のほとばしりはシアタートラムにこだまし、反響し、多分観客の全てに届いた。圧倒される。そこで私は感情をまともに「喰らって」しまったのだ。
そのせいか、メアリーのしなやかさ、やさしさが沁みた。ドラムは私には聞き取れないが、台本のト書きを見る限り要所要所で必要な音を奏でていた。
誰ひとり欠けることは許されない舞台。緻密に計算された閉ざされた世界。開幕近くから完成度の高い舞台。その閉塞感に私は囚われ、ぐるりとした。
繰り返すが事前に台本は読んでいないので筋が全然わからないままで見て、理解としてはぼんやりしたけど、逆に言えば、一番ジョンの、メアリーのパワーを感じた回だったと思う。

2回目 6/6 マチネ 


上手側のE列
台本を当日直前に2回読み込み、台詞を覚えようとしてる役者気分だった(苦笑)
印象的な台詞、話しの流れや順番は頭に叩き込んだが、さすがに台詞を全部覚えるのは難しい。
前から4列目で、ジョンのブースが近くにあるので、ジョンの表情がよく見える。私は主演のファンだから、どうしてもジョンをよく観察するが、大きくビジュアルは変えていないのに、田中圭という人間は消え去り、ジョンという人物になっていて、その細かい身体の変化に毎回驚く。
目は怯えたように、控えめで伏し目がち。薬を打たれたとかそういう時、黒目が時々左右にあり得ないくらい動く。何かを思い出すように上を向いてることもある。
潔癖そうな性格が片付けの様子に現れる。
手がよく動き自分の手や胸や服やいろんなところを不安を隠すように触っている。猫背というか背中に力が入っている。指はまっすぐでなくて曲がって、力を入れてる感じ。
放心しているというか、意識を手放してる時は不安げな表情が消えるから、美しい横顔になる。表情がなくなると精神的に病を持つ人の顔からフラットな顔になるからか。
メアリーのダンスのとき抱きつかれて、そのまま抱き上げて、一回転するのだが、それもリードしていて、カッコいいというよりは不安そうに恐々抱いている。「みんなが見ている」とか話す時、ジェスチャー多め。
最後のシーン、ジョンがメアリーの手を握るのだが、そのときメアリーは泣きそうになっている。それに気がついてそっと手を握る。すべての憂いがなくなかったかのように見えるフラットな表情で前を見る。緩やかなゆっくりとした暗転。

私は…位置的にもほぼジョンを追い、その感情の塊を受けた。前回と違って身体に痺れが残り、それは会場から出ても続き、電車に乗っても続いて30分位で消えた。ジョンに近いが上にストレートに感情のほとばしりを受けたのかなあと感じた。
ほぼ1ヶ月ぶりの観劇であったが、前回筋がわからないのもあったかもしれないけど、とても新鮮にみた。それだけ脚本がかなり細かいことから、初回から結構完成されていて、大きな差がないようにも見える。もちろんメアリーズたちのダンスにさらに磨きがかかってきたように感じたし(特にメアリー2は初めからかなりすごかったが、メアリーのリズミカルに動いて、コードを揺らしたりするのが更にリズミカルになっていたように思った)
そしてジョンの魂の叫びはどんどん迫力を増していっているとも思う。
また、冒頭の風船がなかなか割れなくて舞台その時その時で違うなということはあった。

3回目 6/7 マチネ 


I列真ん中あたり
遠すぎず、ほどよく見える席。シアタートラムの良さというのをよく感じる席。
前日観劇して、筋も動きもわかってきたところでようやく客観的に見たんだと思う。感情のほとばしりをくらいはしたが、ジョンそのものにならず、ラストは(さよならジョン)と涙が出たくらいに、ジョンを客観視してみていた。
それはさみしくもあり、舞台としてみれた瞬間でもあった。それゆえにスッとスタオベしていた。

見ている方もそうだけど、なんと体力も気力も削がれそうな舞台。マチネとソワレ続けてやる日もある。44公演はシアタートラム最長だという。多くの人に届けようとしてくれたのだろうか。
その舞台としての演出と俳優の完成度、緻密な計算…風船やテープを割ったりくっついたり、椅子にくるりんとおさまるのが、ハプニングのように見えてきっちり計算されていて時間内に収まる…(一緒に見に行った推し活仲間ではない友人は、あれだけ動いてぴたりと時間に収まることに驚嘆していた)
その素晴らしい舞台を自分ごとではなく、「舞台」として見た日、だったのかもしれない。

私なりに考えたこと

「Medicine」
訳すなら薬。(北米のインディアンの)まじないという意味もあるらしいけど書いた人がアイルランドの人なら違うのかな。

最後わたしにはなんか話してるのはわかるが、年齢の差を聞き取れないけど、繰り返されるインタビューの答えるジョンの声が高齢のそれになる。同行した人曰く、今までは不安そうな感情が感じられたけど、この声は迷いがなく、逆に感情が抜けて聞こえると。ということは実際のジョンはもう現実もうつつもわからない状態ということ?

ここで、ジョンはギョッとし、自分は若いと思ってきたけど実際の自分は歳をとってるらしいと気がつく。それは「僕はどのくらいここにいるんだろう?」という台詞に現れている。
「聞いてる人なんて誰もいなかったんだずっと。僕らだけ。君たちみたいな人と」……

あの閉塞感ある部屋はジョンの心の中なのかもしれないなと私は思った。
実際は高齢になっているに関わらず、今までの過去を反芻し、若いままでいる。
メアリーズやドラムは多重人格的な何か?妄想?それとも過去に治療などで実際会った人々?

メアリー2は大きいブースに入ろうとすると突風が吹き、入るのを拒まられるかのようだ。これはジョンに嫌われてるんだなと感じる。実際に彼女はジョンを思いやることはなく、早くパーティに行きたいと思っている。最後は間髪入れずに台本を進め、最後にはジョンに(施設に)いる必要がある?という質問に「はい」と言わせ、本当は出ていがたいのに、施設を出ていくことを諦めさせる。そこへ電話がかかってきて、はい終わりました、とロブスターをさっさとしっかり脱いで去っていく。

対してメアリーはジョンに外に出たことあるかとか、そういう気遣いの言葉をかける。さいごもいてほしい?と問いかける。
優しさの権化のようだ。
でもそれはある意味、ジョンにとっては毒であり、叶うことのない夢だ。
でも高齢のジョンは心の中にヴァレリーのようなメアリーを棲まわせ、こころの平穏を得ているのかもしれない。ジョンにとっての薬はメアリーなんだろうか。
どの薬がその人に効くか、それはわからないのだ。

脚本を書いたエンダ・ウォルシュはアイルランドの人だ。アイルランド…日本人にはなじみのない国。ケルト文化をもち、ローマ人、ゲルマン、キリスト教などに侵略されてきた国。
神さまの数は多く日本に似た土着の信仰ように感じられる。首都のタブリン以外は人口密度が低く、自然に囲まれたイメージ。『嵐が丘』はイギリスの北部ヨークシャー出身の作家によるものなので国も違うがなんかその荒涼とした感じを連想した。
その、自然に抱かれつつ、孤独な感じ…が滲み出てる気がする。奇しくもドラムの荒井さんは孤島の出身だ。自然の中にいるからこその孤独。気持ちが通ずるものがありそうな気がする。

ジョンが入ってきた時、年1回しか来れないといい、「普通の服」に着替えることにこだわる。彼は台本を大切そうに2回くらいそっと抱きしめる。ここから、「普通」になって外は出たい気持ちなのかなと私には感じられた。だから年に1回のこの「舞台」はチャンスなのに。入ったら中はぐちゃぐちゃで匂いすらする。絶望的な気分だろうな…。

彼は自分で書いた台本をみないてそらで語り、途中で飛ばされてもすぐ対応できる。ラスト近くでメアリー2に台本通り話すことを強要されたときにもすぐ答えていた。
知能は低くなく、むしろ記憶力がいい。その記憶力の良さはどこから?施設(病院)に入っていることから何かの病気を抱えていて、統合失調症かな?と思ったが、違うような気もする。記憶力の良さからすると知的障害が比較的ない自閉スペクトラム症(ASD)なのか?ほかの発達障害なのか?

その育てにくさのためなのか、親自身も教育をあまり受けていないとか特性があるのか、親の愛情が欲しいのに得られない。両親の仲も破綻している。学校生活においても欲しい友情を得られない。発達障害は生まれつきのものだが、そこに愛着障害も絡んでいる気がする。

孤独。ああ、これはわたしだとも思う。
聞こえる人ばかりの自分の属するコミュニティでたった一人。
上手く会話がなりたたない。大勢の会話に入っていけない。そのためにうまく友達関係が築けない。そもそも今何が行われているか分からない。
ジョン、あなたの孤独が少しはわかる気がする。

ジョンもまた、会話に飢えていたのに、うまく会話が築けなかったんだろうと思う。深い深い孤独。『アルジャーノンに花束』を、を読み終わった時のような寂しさを感じた。

メアリーたちのしていることは治療の一環なのか。カウンセリング的に、認知行動療法的に定期的なガス抜きをしているのか。
メアリー2が途中でジョンに注射を打つが、看護師じゃないからおかしいよね、と私と一緒に見た連れがいった。
なるほど。
役者が医療行為をやっていることの奇妙さ。これは現実なのかな?それともジョンの頭の中の妄想?出たり入ったりするのは人格の交替?

回想シーン?になるとアテレコぽく音声なのはなんでだろう。
演出上、歌も本気で歌うと大変だし、役ごとに声が変わった方が広がりがでるのかもしれないけど、普通に役者さんが何役もやる事もあるよねぇ?あれもジョンが神目線で無意識に当ててるのかな。

すべてはジョンの頭の中…?

私たちは何を見せられているんだろう…?
これは現実のことなのか、回想なのか?

いずれにしても最後のジョンはメアリーに隣にいてもらって、穏やかな顔に見えた。メアリーもまたラブストーリーを求めていた。ジョンにそれを感じてる? (怖いことを考えるなら、メアリーはいなくなった役者の噂からあることを「心配」していた。もしなして彼女は取り込まれしまってる?現実の世界では行方不明になっていたりして…)

メディスンがジョンに効いているといいな。
いまもジョンが穏やかに過ごせているいといいな。
そう願わずにはいられない。
そうすることでわたしの中の「孤独」もある意味救われるかもしれないから。





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