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絵本論

絵本ブームという言葉をよく聞くようになりましたが、反面、子育てをする親から見て適切な絵本は相当に減少しているように思います。

このシリーズではどのような絵本が望ましいかを独断で定義し、その上で様々な絵本について勝手な評価を行なっていきます。これにより、「望ましい」絵本が増えることを目標としています。

もちろん、読者の皆さんがお好きな絵本、思い出の詰まった絵本、作者が懸命に書いた/描いた絵本、世間で評価の高い絵本などに批判を加え、低い評価を下す場合もあるでしょう。

場合によっては私の言説に怒りを覚えることもあるかもしれません。

ただ、あくまで私の感想ですので、決して普遍的に正しいものでもありません。個人の意見であることを前提に読んで頂ければ幸いです。

さて、親が絵本に求める事とは何でしょうか。


  1. 子どもの教育に資すること

  2. 良好な親子関係の醸成に資すること

  3. 子どもの好奇心を刺激すること

  4. 子どもの知識を深めること

  5. 夜寝てもらうこと

  6. 親子の会話のきっかけとなること

  7. 社会のルールを教えること

あたりを私は想定します。

こうしたことから、私が絵本やその作家に求める10箇条を提唱します。


  1. 絵本作家は深い知識と最新の倫理観を持たねばならない。

  2. 絵は抽象的でないものが望ましく、正確に描く。

  3. 絵は子どもが見てワクワクするものである必要がある。

  4. 特に幼児対象の本で「死」「犯罪」「夜」「暴力」「性」をテーマには扱わない。

  5. 親に迎合したり、親の意見を代弁するようなストーリーは避ける。

  6. ADHDを思わせる描写は避ける。

  7. 時間、大きさや長さ、重さなどを正確に扱う。

  8. 話し言葉を避け、やむを得ず使用する場合は「」をつける。

  9. 語呂や語感を犠牲にしてでも体言止めなどは避け、正確な文法や呼称を使用する。

  10. 夢オチを避ける。

です。
以下、条件ごとに詳述します。


1. 絵本作家は深い知識と最新の倫理観を持たねばならない。


絵本とは子どもにとって、人生で初めてとなるかもしれない世界への扉です。
ところがここに描かれる世界が中途半端な知識で構成されていると、非常な混乱を招くことがあります。
大人は他の本などでその混乱や歪みを修正することができますが、子どもはそれができません。
誤った知識を修正することは非常に大変ですし、場合によっては青年期まで禍根を残します。

ですから、「子どもだから適当でいい」ではなく、「子どもだから細心の注意を払って」欲しいのです。

最新の倫理観について、特に昔の絵本に多いのですが、現代的な価値観とはずれてしまっている「名作」について、そろそろ高評価をつけるのはやめるべきです。

例えば「どろんこハリー」という有名な絵本があります。
この絵本は、「お風呂嫌いのハリーが汚れて帰ってくると、いくら頑張っても飼い主一家にハリーであると認識してもらえない。お風呂に入ってやっと認識される」というストーリーです。

しかしこれは明らかにルッキズムです。
外見が変わった程度で家族に認識されなくなるとは何とも恐ろしい話であり、子どもの「親から捨てられる」事への根源的な恐怖を利用して躾ようとする意図は明白であり、現代的な価値観に合いません。
下手をすると虐待です。

ですからこの本を読む親は、「ハリーは気づいてもらえなかったけれども、お母さん/お父さんは○○がいくら外見が変わっても絶対に気づくからね。」と伝える必要があるでしょう。

このように、特に「昔の名作」には注意を払う必要があります。


2. 絵は抽象的でないものが望ましく、正確に描く。


大人はこれまで受けてきた教育や脳の発達によって、一つ一つ違うリンゴをひとまとめにして「リンゴ」と呼称することができるようになっています。
これを抽象化と言いますが、場合によっては抽象化の段階をもう少し進めて数字にしたりもします。

ところが子どもはこの抽象化の能力が備わっていません。習っていないこともありますし、脳が未発達なことも原因です。

従って、あまりに抽象的な絵は理解ができません。

例えば親から見るとアニメ調で可愛いゾウさんの絵ですが、子どもにとって図鑑の写真で見るゾウとそのアニメ調の絵は完全に別の存在となります。もちろん、完全に別の存在なのに同じ呼称を用いることで段々と慣れてはいくのですが、図鑑との相似性が高い方が慣れやすいのは当然のことです。

子ども向けだからといって「可愛い絵」にすると、子供からすればかえって理解が困難になるのです。

また、子どもは様々なものから情報を得ます。絵本で描かれた「ゾウさん」は図鑑で見るアフリカゾウなのかインドゾウなのか判別できるでしょうか。シマウマはグレビーシマウマなのかサバンナシマウマなのか、ヤマシマウマなのか、判別できるでしょうか。

デフォルメして描く場合でも、こうした動物学的な正確性を抑えておく必要があります。ゾウとシマウマが出てくる場面で、インドゾウが出てきたら生息地を考えるとおかしいのです。

子ども相手だからこそ手を抜かず、きちんと考証する必要があります。「子どもはそこまで見ていない」と決めつけるのはやめましょう。
子どもこそ色々な図鑑と見比べたりするのですから。


3. 絵は子どもが見てワクワクするものである必要がある。


子どもは興味を持たなければ読みませんし、例え開いたとしても集中力が続きません。集中力を伸ばそうと思えば、子どもが時を忘れるほど楽しいと思う絵である必要があります。

では、子どもが楽しいと思う絵とはどういう絵でしょうか。

答えは簡単で、「分かりやすく」「色、特に原色が目立つ絵」です。

ここで「分かりやすい」とは、まずは「抽象化の程度が低い」ことです。例えば極端な話、ゾウを灰色の正方形、シマウマを黒白縞模様の長方形で表現されると、ほとんどの子どもにとって意味が分かりません。従って楽しくありません。

また、構図も大切です。

メインに注目が集まる描き方でなければ、子どもは目移りしてしまいます。目移りするとストーリーとの連携が取れなくなり、飽きます。メインにのみ配色しその他はモノクロとする手もあります。これは「色が目立つ」という手でも有効な手法です。

この手段で成功したのが「あかいてぶくろ」という絵本です。
本作品は雪の世界を舞台とすることでモノクロに正当性を持たせ、手袋の赤を引き立てています。ストーリーも良いので、お勧めをしておきます。

子どもにとっての「分かりやすい」は大人と違うことを踏まえながら描いていただきたいと思います。


4. 特に幼児対象の本で「死」「犯罪」「夜」「暴力」「性」をテーマには扱わない。


言うまでもないことですが、子どもは一般的な社会の常識がまだ形成されておりません。その時にこうした事柄が入ってくると、子どもの善悪の軸は大きく揺さぶられます。

また感情的にもかなりの衝撃を受けます。その衝撃は、ある程度の耐性を得ている大人とは違いますので、深く印象に残ります。

結果、善悪の区別がつく前に真似をすることになります。

無邪気に犯罪の真似をする子ども、安易に「死ね」と発言する子ども、そういえば心当たりがありませんか。同じ理由で、親から抜け出すことや悪戯する描写がある本も避けるべきと考えています。

「死」について、もちろん「死別を経験した子どものための本も欲しい」というニーズは分かりますので否定するものではありませんが、一方で死別を経験するまでは選ばないとも思います。

また、「夜」を避けるべき理由は簡単です。
子どもにとって夜は寝るものなのです。もちろん共働きなどの理由でやむを得ないことはあるでしょうが、絵本のお世話になる年齢のうちは20時頃までには寝るのが子どもの生物学的にあるべき姿です。

しかし絵本により「夜に冒険があるかもしれない」と思った子どもは寝てくれるでしょうか。夜に一人目が覚めた時、親に黙って抜け出さないでしょうか。

動物として夜目がきかない人間にとって、夜は恐怖の時間であることが自然です。その恐怖は小学生になって徐々に克服していく性質のものです。その過程で光を使い、危険に対する対処法を身につけていくのです。

従って、「夜に楽しいことがあるかもしれない」と強く思わせるような、夜をメインテーマとする本は避けています。


5. 親に迎合したり、親の意見を代弁するようなストーリーは避ける。


最近増えているのがこのジャンルです。
親がいかに子どものことを愛しているかなどが絵本となり、「感動する」などと持ち上げられた結果、書店のコーナーを占拠するまでに至っています。

しかし、そんなことは本の力を借りずとも伝えるべきです。

絵本を読む時間とは、子どもを楽しませる時間です。
親の一方的な演説を聞いて、子どもは楽しいでしょうか。なんだか気恥ずかしさを感じてソワソワすることはあっても、ワクワクすることはありません。

親から子への手紙としても質が低いです。そんなものはもし必要なら自分で書いて、子どもの結婚式まで取っておきましょう。

愛情を示したかったら、本を読み終えて寝かしつける際に抱きしめて伝えれば良いのです。

ワクワクしない本を長々と読んで本を嫌いにさせてしまっては本末転倒も甚だしいです。


6. ADHDを思わせる描写は避ける。


これは差別ではありません。むしろ逆なのです。

ADHDを思わせるキャラクターが作中に登場する場合、どのような扱いになるでしょうか。
例えば大暴れしたり散らかしたままにしたりして、親から怒られる描写になるはずです。

ひどい場合はご飯を抜く、部屋に閉じ込められるなどの具体的な罰の描写すらされることがあります。

特に一昔前の絵本に多い描写です。作者は「こんなことをすると叱られてこんな罰を受けるからやめよう」という意図で描いているのかもしれません。
しかし、これはもちろん現代では虐待であり許されない上に、現代の子どもたちは周りに普通にADHDの子どもがいるのです。

そういう子どもたちがこうした描写を見ると、子どもたちは「ADHD的な行動をとる人には怒っていい。罰を与えていい。」と考えてしまいます。そして、保育園、幼稚園、小学校で公然と加害してしまいます。場合によっては虐める可能性すらあります。

一方で、だからと言ってADHD的な行動を礼賛するような描写も当然困ります。子どもは真似をするものですから。

悪く描いても良く描いても問題だとなると、余程のことがない限りそもそもADHD的な描写を絵本でするべきではないことになります。

繰り返し、ADHDの方を差別する意図はなくむしろ逆であると書いておきます。


7. 時間、大きさや長さ、重さなどを正確に扱う。


子どもは絵本を通して物の大きさや時間の長さ、重さなどを学んでいきます。ところが一部の絵本は大きさをある程度無視してキャラクターなどを描くため、結果的に子どもは混乱することになります。

例えば「おふろだいすき」という有名な絵本があります。

この本では様々な水棲生物が主人公の少年の湯船から出てくるのですが、中にはカバやクジラなど明らかに湯船より大きなサイズの生き物も出てきてしまいます。

これにより、わざわざ遠くの水族館や動物園まで行って本物のカバやクジラを見せ、大きさを教えた努力が大幅に無駄になってしまうのです。

「想像を豊かに」という反論が聞こえてきそうですが、想像の原資となるのは徹底した現実の入力です。

この本は「湯船は圧倒的にクジラより小さいこと」を知っている大人にとっては「想像力豊か」で「面白い」本になりますが、まだ大きさの概念が育っていない子どもにとっては「あれ?クジラってこの前水族館で見たのはもっと大きかったけど…違うクジラかな?」と困惑させるだけの本になるわけです。
少なくとも、大きさを超越した面白さなど、理解できるようになるのは小学生となってからです。

「かいじゅうたちのいるところ」は主人公が寝ている間に大航海をして怪獣の王国で王様になりまた戻ってきたら夢だったというストーリーです。

この航海の期間は片道で「1年と1日」なのですが、この本の対象となる年齢の子どもにとって、1年とは人生の数分の1となる膨大な時間です。
その膨大な時間の描写は僅か1行であり、1年という時間の長さの重みを感じることができません。

おそらく語呂が良いからという理由で1年と1日という期間が選ばれたのだろうと思いますが、子どもが想像できる長さは最大でも1週間程度だと思うといかにも長すぎます。

1週間であっても特にストーリーを壊すわけでもなく、語呂という大人の都合を優先した作品であることを感じさせます。

(本絵本は冒頭に罰を伴うADHD的な描写がある他、怪獣の王国の王様となったのちにあっさりと地位を放り出すなど無責任な描写もあり、私はお勧めしません。)

このように、時間や大きさ、重さといった基本的な物理的量の扱いを正確に、慎重にしていただきたいと思います。


8. 話し言葉を避け、やむを得ず使用する場合は「」をつける。


子どもが最初に書く文章は必ず話し言葉です。
もちろん一所懸命に書くわけですから、子どもたち本人は自分で書いた文章のことを覚えています。

子どもにとっての文章の先生は絵本ですから、ある程度自分で読めるようになった子どもは自分が書いた文章と絵本の文章との違いから「書き言葉」を学んでいきます。

この時に絵本が話し言葉で記載されていたらどうでしょうか。
子どもは「話し言葉で書いてもよいのだ」と誤解します。
何しろ自身で得た経験ですから、その効果は絶大で、これを矯正するのには多大な時間と労力がかかります。

端的にいえば、話し言葉で書かれた絵本は、子どもの教育のためになるどころか障壁となってしまう可能性があるのです。

文字の読めない低年齢の子どもを対象とした本であっても、子どもは意外に文字を追っているものです。

これは子育て一般に言えることだろうと思いますが、子どもを子ども扱いするとろくなことになりません。
子どもを一人の個人として扱うことが大切で、例えば言葉がわからない様子だからといって説明しないのはよくありません。

「どうせ読めないから話し言葉で書かれていても問題ない」という考え方は、この意味でもあまりよくないと思います。


9. 語呂や語感を犠牲にしてでも体言止めなどは避け、正確な文法や呼称を使用する。


先程のテーマと重複する部分もありますが、あえて独立して記載しています。
例え物語であっても、子どもが人生の最初の段階で触れる文章は正確な文法を備えている必要があります。

正確な表現の理解がないままに体言止めなどの詩の表現を見ても混乱するだけだからです。

例えば「お茶」とだけ言葉を発した子どもに対して「お茶をください」と訂正するのが、言語としての日本語教育の始まりです。

絵本はまさにこの時期に読むものですから、ここで語感や語呂やリズムと言った、子どもがまだ知らない理由で助詞を飛ばしたり体言止めをしたりすることは、普段の言語教育と齟齬を生み、ただ子どもを混乱させるだけなのです。

「両親は文章で話せという。絵本は文章になっていない。」では、子どもはどちらを信じれば良いか分からなくなってしまいます。

絵本作家の皆様には、多少の言葉遊びは犠牲にしても、正確な日本語での記述をお願いします。


10. 夢オチを避ける。


非現実的な話題を扱う絵本でよく見られますが、夢オチが最もがっかりする結末であることは言うまでもありません。がっかりするのみならず、絵本から得た示唆や思考も夢であったとして忘れられてしまいます。

夢であればどんな不思議もどんな非現実も存在し得るという姿勢は、一方でどんな不思議もどんな非現実も現実世界に届かないということでもあります。

従って、夢オチの物語を子どもの成長に活かすのであれば、最低限夢と現実を繋ぐ描写を入れて頂きたいものです。

「10かいだての おひめさまの おしろ」では最後に夢からの贈り物として鍵を登場させますが、これは非常に良い試みだと言えます。

夢では自由にするという描写は、翻って子どもに対して現実を辛く不自由なものと受け止めさせてしまう可能性があります。夢を描写する際は特に気をつけて頂きたいものです。





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