生き方についてのエッセイ① 「自信」のなさがもたらす破滅

「自信」は自分がよりよい人生を送るためには必要不可欠だ
とこの年齢になって、よくよく思い知らされる。

私には自信がない。
それがいまの自分の首を絞めている。

ざっくりと私の経歴を書くと、以下の通りだ。

名門女子中高一貫私立校を卒業し渡米進学
帰国後、日本で大学に編入のち卒業

かなりぼかしてかいているのだが、
それでもこうやって書きだして客観的に見てみると、なんだか将来なんにでもなれそうな経歴ではある。しかし、実際のところ、現在は日本の小さな会社でグラフィックデザインをやっている。過去の経歴とは全くと言っていいほど関係がない。大学での専攻はPolitical Scienceだ。

なぜこういう結果になったのか、考えてみるとたどり着くのは「自信」のなさだ。

日本人は「自信」というと「横柄」とか「傲慢」とかはたまた「無鉄砲さ」であるとか、比較的ネガティブなことを連想しがちであるが、私がここでいう「自信」とはつまり読んで字のごとく「自分を信じること」だ。
自分の性質、趣向、能力、それから過去に歩んできた道をすべて統括して自分自身に客観的判断を下す力のことを「自信」と定義する。

少し自分の話をする。

高校の時、尊敬していた(というとちょっと仰々しいが)友達に「りりこは自己評価低すぎる。全然だめじゃないのに」と言われて目からうろこが落ちたことがある。

私は昔から「人が当たり前にやっていること」が「できない」ことが多く(ADHDなのだということは大人になってから分かった)、母はそのたびに憤慨していた。「あなたは人の2倍も、3倍も努力しなくてはいけない」という母の言葉がいまも心に深く突き刺さっている。

何をするにも脳裏に母の言葉がよぎり(私は人の2倍、3倍努力しただろうか…)と自問してしまい、そこから先に進めない。とても興味があること、好きなことがあっても言い出せない、踏み出せない。(どうせ私にはできない)という感覚に陥ってしまう。

私は自分を信じてあげることができなくなってしまった。

余談だがうちはザ・中流みたいな家庭だ。
父は某国立大卒で大企業の開発者で、母も理系私大を出ている。
お金がどう というよりも非常に教育熱心な両親である。

私が自分の家庭環境を書くのは、一億総中流日本において、わたしと似たような経験をしていている人は少なくないだろう と思うからだ。

というかこの手の親子のすれ違いは中流家庭ではよくある話だ。
日本の中流家庭では家長が働ける間は特段お金の心配はない。豊かな生活もできる。
しかし、雇われの身であるからその安定は基本的には一代限りである。
自分たちの子供にも自分たちと同じような「豊かな」生活を送ってほしい
という思いが親たちの情熱を「子供の教育」へ向けさせるのではないだろうか。 というのが持論だ。

弁明しておくが、これは両親に対する非難ではない。私は教育熱心な両親に
は感謝しているし、うちの両親が「特別」おかしい ということではない。「親」の立場であれば当然の「親」の愛情なのだろう。本当によくある話なのだ。

ただ親が良かれと思ってする「親の期待」は、時として子供にとって凶器になり、結果的に子供の将来をつぶすかもしれない。

「何者」にでもなれたこどもたちが「何者」にもなれなかったという空虚さを抱いて生きることになってしまう。私もその一人である。正直今の私は「これからどうしよう」という不安でいっぱいだ。それは金銭面の話だけではない。すでに結婚してもよいころの年齢だが興味がない。とすれば一人で生きていかなくてはいけない。けれど、こんなに不安定な世の中でどうやっ
て心を落ち着かせればよいのか。

私の思う幸せとは「自分が納得している」状態だ。
たとえ他人から見ていばらの道であっても本人がそれで良いと自然に思ている状態が「幸せ」なのだ。

外的要因に左右されず「自分はこの人生で良いのだ」と思えること、「自信を持つ」ことが不安定な世の中を幸せに生きるためには不可欠だと、いま改めて思う。

自信がない のはつまり 自分に対して常に不満がある状態 だ。
努力を重ねてギャップを埋めようとするのも大事だが、
客観的に自分を見て判断を下す「自信」が良い人生への近道なのだと思う。

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たぶん続く

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