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『日本と中国のお茶~中国茶入門!~』

大家好!こんにちは!Lilian中国語スクールです。

今回は中国の茶について書いて参ります。
ぜひ、暇つぶしとして読んでいってくださいね!

普段何気なく飲んでいるお茶。
中国や香港、台湾では飲食店で何も言わなくてもお茶が出てくるところがたくさんあります。

ちなみに「お茶をください」は中国語で「请给我茶水。(Qǐng gěi wǒ chá shuǐ .)」と言います。


お茶のことを「茶(chá)」と表現しても通じるかとは思いますが、飲み物になっている茶を指すときは、しばしば「茶水(chá shuǐ)」と表現されます。


こんな風に何気なく提供されているお茶ですが、中国茶と一括りにされている多くは、日本茶と同じ『チャノキ』から製茶されています。
今回はまず初めに、ということで「普段無意識に飲んでいるお茶って実際何なの?」というお話をしていきたいと思います。

「茶(chá)」とは


「麦茶」「そば茶」「マテ茶」「ルイボスティー」などは「チャノキ」から製茶されたものではありません。それぞれ「大麦」「そば」「イェルバ・マテ」「ルイボス」の実や葉を加工したものです。これらを「チャノキ以外の植物から作られた茶」として「茶外茶(chá wài chá)」と表現します。全くの同義ではありませんが、ハーブティーと表現されるものも概ね「茶外茶」に含まれます。

対して、「日本茶」「ほうじ茶」「緑茶〈绿茶〉(lǜ chá)」「烏龍茶〈乌龙茶〉(wū lóng chá)」「紅茶〈红茶〉(hóng chá)」「普洱(プーアル)茶(pǔ ěr chá)」などは「チャノキ」から製茶されたものになります。今回取り扱うのは主にこちらです。

先ほどから「チャノキ」と表現しておりますが、これは和名であり、学名は「Camellia sinensis(カメリア・シネンシス)」です。詳しく書きますと、チャノキは「被子植物門 真正双子葉類 キク類 ツツジ目 ツバキ科 ツバキ属 チャノキ」となります。「ツバキ属」を「カメリア」と言い、「シネンシス」は「中国の」という意味のラテン語になります。雑に訳すと、「中国ツバキ」がいわゆる「チャノキ」というわけです。


この「カメリア・シネンシス」は現在、亜熱帯と熱帯地域に広く分布しており、北は北緯49度のウクライナのザカルバード地区、南は南緯22度のナミビアに分布しています。中でもアジア地域に多く分布しており、アジアに存在する茶樹は世界中の90%近くに登ります。

「茶の起源」

さて、この「チャノキ」、その起源に迫っていきたいと思います。
植物学の研究によると、チャノキが属する被子植物は中生代(約2億5217万年前~約6600万年前)の早期には出現していたようです。ツバキ科の植物は、中生代の中期や末期である白亜紀(約1億4500万年前~約6600万年前、中生代を三区分した時の最後の区分)の地層から化石が発見されています。ツバキ属(ツバキ科からさらに分化した一群)の中の比較的原始的な種類は中生代末期から新生代(約6500万年前~現在)の早期に発生し、チャノキはこのツバキ属の中でも比較的原始的な種類です。
上述のことから、植物学者の分析によれば、チャノキは6000万年から7000万年の歴史を有するとされています。


チャノキの歴史の長さがわかったところで、果たしてチャノキはいったい地球のどこで誕生したのか、という疑問にも迫りましょう。
中国の歴史資料には、中国南方諸省に古代の、野生の大茶樹の存在が挙げられており、中でも四川省(Sì chuān shěng)、雲南省〈云南省〉(Yún nán shěng)、貴州省〈贵州省〉(Gùi zhōu shěng)に多く発見されたとあります。
存在がしっかり確認されているものから、眉唾くさいものまで、中国国内の歴史資料における茶の情報は非常に多く、現に野生種は中国の西南地方である雲南省、貴州省、四川省に多く確認されています。
このことから、中国の南西部が「チャノキ」の発生した地域というのが有力な見方です。
一方、インドのアッサム地方のサディヤでも古い野生のチャノキが発見されており、そちらを支持する学者もいるようです。

日本への伝播

herbal tea中国では上記のように連綿に茶との関わりが示されており、文献に記されていることを信じるならば、神話時代の「神農〈神农〉(Shén nóng)」という皇帝、あるいは神様というのが適切かもしれない人物が茶の解毒作用を利用して、様々な植物を己の身で試し、毒の有無を民に伝えたとあります。
また、唐の時代には「陸羽〈陆羽〉(Lù yǔ)」という人物が『茶経〈茶经〉(Chá jīng)』という書物を書き残しています。760年ごろの著とされており、この時点で既に中国は千年以上の茶との関わりがあるということを窺い知れます。
では、日本へは茶はいつ、どのようにもたらされたのか、気になりますよね。
唐の永貞元年(805年)に、最澄が仏教の勉強で中国へ渡っており、戻ってくる際に茶の種を滋賀県のあたりに持ち帰ったことが日本への茶の伝来の最初とされています。
815年に嵯峨天皇が滋賀県の梵釈寺に訪れた際、僧が茶を献上したそうです。嵯峨天皇はこれをとても気に入り、茶を飲むこと、茶を栽培することを広く推奨したそうです。
後に、1191年に栄西が中国へ留学した際、浙江省(Zhè jiāng shěng)の天台山国清寺(Tiān tái shān guó qīng sì)から茶の種と茶器を持ち帰ったそうです。同時に『喫茶養生紀』を記し、製茶技術や茶樹の育て方、茶を飲む風習を伝えたことは、日本の茶産業の始祖と呼ぶにふさわしい行いだったようです。
最澄、栄西、二人とも歴史の授業で聞いたような気がするのですが、二人とも仏教関係の紹介がされていたと記憶しています。しかし、調べてみると以外にも茶の伝播に関係していて、なんだか歴史上の人物の新たな一面を知れたような気がしませんか?

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千利休 陸羽 二人の茶聖

お茶に関する人物というと、日本人であれば「千利休」を挙げる人が多いのではないでしょうか。千利休は日本の茶道の集大成を形成した人物であると言えます。また彼はその茶分化への貢献から「茶聖」と呼びたたえられています。
一方、中国で「茶聖〈茶圣〉(Chá shèng)」というと「陸羽」という人物を指します。彼の生没年は733-804、唐の時代の人物です。彼はその生涯の中で茶の研究を行い、『茶経』という書物を遺しました。
この茶経がそれまでの茶を取り扱った書物と何が違うかというと、それは「一冊まるごと茶に特化した書物である」という点です。従来の植物を扱った書物は、植物百科の体をなしているか、農作を扱う中に茶に関する項目があるにすぎず、お世辞にも内容が充実していたとは言い難いものでした。
また、それまでは様々な野菜などの一種類として煮込んで飲まれていた、というより食されていた茶を、それを飲むためだけに湯を沸かす道具である汤瓶(tāng píng)いわゆるヤカンを作ったりと、茶が独立した嗜好品になるための道筋を作った人物と言えるでしょう。陸羽の研究がなければ、もしかするといまだに茶は野菜の一種類にすぎなかったのかもしれません。

最後に

中国茶、というより茶に関するあれこれを説明いたしました。茶とはいったいなんなのか、延々それを語ってきたのですが、実は語り切れていないことがまだまだたくさんあります。 茶とはなんぞや、という答えが、もしかしたら『茶経』の冒頭の文章にあるかもしれません。
『茶経』は〈茶者南方之嘉木也(Chá zhě nán fāng zhī jiā mù yě)*〉という一文から始まります。
「茶は南方の嘉木(=良い木)なり」という意味になります。
健康効果もあり、味も香りもよい。現代に至るまで、その葉と火入れのみで多くの人々に愛されている茶というものを端的に表現しているかもしれません。

本日も最後までお読みいただきありがとうございます。
少しでも中国文化の一部である茶について知っていただければ幸いです。

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