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96歳で亡くなったおばあちゃんについて思うこと

2024年3月19日、おばあちゃん永眠。96歳でした。
世間一般的におばあちゃんに対するイメージは「優しい、かわいい、大好き」みたいな感じでしょうか。

私の場合はそれだけでない複雑な感情もあってただ悲しいだけではなく…。
今の気持ちが色あせないうちにここに残しておこうと思います。


おばあちゃんの若かりし頃

戦後間もない頃にできちゃったで妊娠したおばあちゃん。当時19歳。
結婚して出産するも義理の家族と折り合い悪く、幼子の父を連れて家出、後に離婚。
父が10代の頃には親戚に父を預け東京へ仕事に行った(きっと男ができたんだと思う)。

ものごころがついてから自分の父親に一度も会ったなく、多感な10代は母親からも離れて暮らした私の父は気難しい人になった。きっと寂しかったんだろう。このおばあちゃんの育て方の影響が大きいと感じている。

父が私の母と結婚する頃には東京から戻ってきて、孫の私が生まれてからは私を溺愛してくれた。

姑としてのおばあちゃん

会う度に優しくて、褒めてくれて、お小遣いをくれて大好きだったおばあちゃん。
でも私が10歳になる頃から母から遠回しにおばあちゃんの愚痴を聞くようになった。
「私には優しいのに、どうやらお母さんには冷たいらしい。女っていろいろあるんやな。女って怖いな。」
思春期を迎える頃にはおばあちゃんの二面性を知ることになった。

何よりもオシャレが一番のおばあちゃん

おばあちゃんはいつもオシャレで周りの人から若く見られることをとても喜んでいた。
いつもヒールのある靴を履いていた。だってその方がオシャレに見えるから。
それはある程度の年齢までは良いのだろうけど、年齢を重ねるにつれてヒールは足が疲れる。でもオシャレで若く見えるのが大事。

駅から徒歩20分の所に住んでいたおばあちゃん。ヒールで歩くのが段々億劫になって毎回バスやタクシーを使うようになった。

英語が喋れるクールなおばあちゃん

私がパートナーのMaxと出会った時88歳だったおばあちゃん。
初めて会わせた時、「Hello, Max-san! Nice to meet you!」と思いの外ペラペラで家族一同驚いた。

何十年も前おばあちゃんの妹がアメリカ人と結婚していた。私が生まれる前にそのおばさんは離婚したので、私はそのアメリカ人に会ったことはない。そのことは家族みんな知っていたけど、その時の名残で80代後半でもある程度英語が話せてめちゃくちゃクールなおばあちゃんだった。

両親がほとんど英語が話せない中、90歳手前のおばあちゃんが私の通訳なしでMaxと話す光景はなんとも不思議だった。

いつまでも女でプライドの高かったおばあちゃん

おばあちゃんのマンションに「老人会」なるものがあり、それに入るとボランティアの人がちょっとした困りごとを助けてくれる。

おばあちゃんは加入を勧められたものの断固拒否、逆にボランティア側に参加して自分よりも年下の老人のお手伝いをしていた。当時70代後半。
「最近はこういう活動をしているのよ」と自慢げに教えてくれた。

また、おばあちゃんは孫の私以外の人から「おばあちゃん」と呼ばれることを嫌った。
90歳を超えたある日、近所の3~4歳くらいの男の子に「おばあちゃん」と声を掛けられて心外だったと教えてくれたことがある。
さすがにそんな幼い知らない子どもから「おねえさん」と呼んでもらうのは無理があるよとは喉元まで出かけたけど言えなかった。

Maxからは下の名前で「〇〇chan」と呼んでもらっていた。

そういえば人生のほとんどを大阪で過ごしたのにおばあちゃんは関西弁を話さず、いつも標準語だった。
きっと自分の中で確固たる美意識のようなものがあって、それに外れたことはなんとしてもやりたくなかったんだろう。

次第に歩けなくなったおばあちゃん

おばあちゃんは運動に一切興味がなく、外出しても駅まではバスかタクシーの日々だったので徐々に足腰が弱って行った。

次第に傘を杖代わりに使うようになった。
でもそれはとても危険なので私の母がなんとかおばあちゃんを説得してデパートに連れて行って、杖や歩行器を買ってあげた。
なるべく年寄り臭くなくオシャレなものを。

だけど母や父の思い空しく、おばあちゃんがそれらを使うことはなかった。そもそも杖や歩行器は年寄りが使うもので、自分が年寄りだと絶対に認めたくないおばあちゃんとしてはなんとしても使いたくなかったんだろう。

運動をせず足を労わることもしなかったので、もちろん症状はどんどん悪くなる。
マンションの4階に住んでいて、エレベーターはあったものの段々ゴミ出しに行くのも大変になり近所の人に頼るようになっていった。

コロナが始まった時期に遂にベッドから起き上がれなくなった。
数駅離れたところに住む私の両親が数日おきにお世話をしに行くことになったけど、70代の両親が90代のおばあちゃんの面倒を見るには限界がある。やっとのことでなんとかタイミングよく老人ホームが見つかり入所することになった。

マンションの退去作業を私の両親が2人でやったため、相当きつかったらしい。当時オーストラリアの国境封鎖で日本に帰ることができなかった私はなにも手伝えず歯がゆくて申し訳なかった。

荷物の片づけをしているといわゆる運動靴が一足もなく、ヒールのある靴しかなかったらしい。
「そのブーツは高かったから捨てないで」等々両親に文句を言ってたらしいけど、もう自分で履くことはできないし歩けないでしょと呆れられていた。

マンションの片付けや退去に関する手続きを全てやった両親に「ありがとう」の一言もなかったおばあちゃん。
本人としてはまた歩けるようになると思っていて、お気に入りの服や靴を捨てられたのが不服だったのかもしれない。
それとも自分の世話を息子と嫁がするのは当然と思っていたのか。

強靭な体を持っていたおばあちゃん

足腰が弱って寝たきりになったものの、それ以外は全くの健康体だった。
それでも年々体力は落ちてくる。

前回私とMaxがおばあちゃんに会った時(奇しくもこれが最後の面会となってしまった)、私達が部屋に入るや「きれいにしなきゃ」と櫛で髪をといた。

今住んでる家の写真を見せたりして「わぁステキなおうちね」と喜んで眺めてたけど、後で母に「もう目が悪くなってるから見えてなかったと思うで」と言われた。

車椅子で背中が丸まって弱々しかったおばあちゃん。
それでも体の検査をしてもどこも引っ掛からずお医者さんいわく内臓は完璧な健康体だった。
認知症でボケることもなく、ただボケないので最後まで嫁である母には冷たかった。

おばあちゃん最期の数ヶ月

今年のお正月に家族からLINEで「おばあちゃんからCarrot宛に年賀状が届いてるよ」と知らせてくれた。
宛名や新年のメッセージを職員さんが書いてくれて、自分の名前だけおばあちゃんの直筆で書かれていた。
老人ホームでこんなことしてくれるんだね。
ほんの数年前まで手紙を書いてくれていた頃と違って握力がなくなり歪んだ字だけど一生懸命書いてくれたことが伝わった。

今年に入った頃からグッと体力が減っていったおばあちゃん。
どうやら元々歯の手入れも怠っていたようで次第に食事するのも大変だったらしい。

そんな中、先週突然お粥しか食べられない状態になり、次の日にはほんの少しの水分を飲むくらいまで弱っていった。それが土曜日夕方。

日曜日は面会できない老人ホームだったので、週明けの月曜日に両親が面会に行くと呼び掛けても反応がない。この時は呼吸がしにくいのか苦しんでるように見えたそう。

そして次の日の19日の午前中に息を引き取った。
両親は最期の瞬間には立ち会えなかったけど、とても穏やかな顔をしていたよ、と。

おばあちゃん危篤の連絡を受けて

突然おばあちゃん危篤の連絡があってしばらく呆然とした。
私にはとことん優しかったけど、両親、特に母に対していじわるな面もあったので冷静に受け止められると思った。

でも来月の一時帰国で会えると思ってたのに、もう二度と会えないと思ったら自然と涙が溢れてきた。

そして次の日に息を引き取ったと連絡が来た時は意外にも涙は出なかった。
前日にひとしきり泣いたからか。
それでもふとした時に涙がこみ上げてくる。
単純に「大好き」だけでなかった家族でも、やっぱり亡くなると悲しくなるんだ。

夕方、もろもろの手続きを終えて帰宅した両親に電話した。
私同様悲しんでるかと思いきや、いつも通りだった(笑)
正直肩の荷が下りて少しホッとした感じだった。
年齢が年齢だったし、年明けからみるみる弱っていってたから覚悟してたんだと思う。
とりあえず父も母も元気そうでよかった。

2日後に告別式。家族だけ数人の小さな小さなお葬式。
私は数週間後に元々一時帰国する予定なので今回は参加できなくてもいいよと言ってくれた。

なによりもオシャレ好きだったおばあちゃん。
当日はお化粧をしてもらえるみたい。
元気だった頃のおばあちゃんを思い出したらまた泣けてくる。
キレイにしてもらって天国に行けて本人も喜んでると思う。

おばあちゃんから学んだこと

担当してくださった看護師さんのお言葉
「いわゆる老衰です。90歳後半になってもこれといった大きな病気もなく来れたのは立派なことです。」

だからこそ私は思う。
普段からもっと歩くことを意識さえしていれば。
歯の手入れも必要最低限していれば。
おばあちゃんはもっと違った人生の終わりを迎えられたと思う。

例えば病気や事故が原因だったら仕方ないにせよ、ただ面倒だからで運動を怠って歩けなくなるのはいやだ。
死ぬまで自分の足で好きな場所へ行ったり、一日でも長くおいしいものを食べたい。

私はそう考えるけど、もしかしたらおばあちゃん的には望んだ結果だったのかもしれない。
杖や歩行器に頼るくらいなら歩けなくなって上等。
最後のギリギリまで履きたい靴を履いてオシャレするの。
じゃなきゃ女が廃る。
…と思っていたのかはもう本人に確認できないけれど。

そして周りの人への感謝の言葉を伝えること。
コロナの関係で老人ホームが面会を受け付けなかった期間があって、何ヶ月も両親がお見舞いに行けなかったことがあった。
でもその期間が終わってからも両親自身が老いてることもあり、そもそもそっけない態度を取られるので必要最低限しか面会には行かなかった。

ベッドの上で何もせず一日中じっと過ごす日々がずっと続くのはあまりに空しい。目が悪いと本すら読めないし。
せっかく96歳まで生きられてもそんな毎日は楽しくない。
老人ホームに入ってからのおばあちゃんはきっと日々の楽しみなんてなかったと思う。

せめて普段から両親へねぎらいの言葉を掛けていれば、両親は義務からでなくもっと喜んで会いに行ってたかもしれない。
私は家族や他人に関わらず、接する人にはなるべく感謝の気持ちを伝えていこうと思った。

そんな反面教師な一面があったおばあちゃんだけど、やっぱり来月久しぶりに会って「Carrotちゃん」って声を掛けてもらいたかったな。
世の中で唯一私をちゃんづけで呼んでくれた人がいなくなったのは寂しいよ。

おばあちゃん、私の両親へは時にいじわるだったけど大好きだったよ。
今までありがとう。
いつかまた会う日まで天国で待っててね。
(天国に行けたなら…と最後に毒を吐く孫。大丈夫、行けると思う。)

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