愚者探し

自分の思考を体系化するには、当然、勉強が必要だなと思います。

日頃、ニュースとか、見知った出来事に対して、いろいろな感想を抱きますが、どれも単発の感想でしかありません。体系化がまったくできていない。

たとえば、南青山の児童相談所の反対問題とかを見ていると、当然「哀れな人たちだ」と思うわけで。でも、その一瞬後には、報道の様子が僕たちの怒りを煽っているような気がしてくる。梅干しを食べたら口が「*」の形になるかのような反射が、僕の身に起こっているような気がしてくる。そうなると、もう居心地が悪い。

そんな感情のまま、いろいろと考えてみると、確かに南青山にはブランドイメージというものがあり、そこに住む人がそれを望まないのなら、必要ないのでは……? という気にもなってくる。

まあ、僕はそんな街には住みたくありませんし、空虚なブランドイメージだなという感想は拭えませんが……でももう、その頃にはほとんど興味を失っている。

興味を失ったあとにあるのは、「自分は何かに怒った」という残滓だけで、これが中毒的に僕を蝕んでいるような気がします。

「怒る」ことが目的化している。「怒る」ための火種を探している。嘲笑をさし向ける「愚者」を探し回っている。

バカを見つけ、嘲笑し、怒りを表明し、自分の正しさを確認する。バカのパンチにカウンターを決める。カウンターを決められそうな相手を探す。

「人は愛を求め彷徨う」ではなく「人はバカを求め彷徨う」状態。

こんな方法では、自分の思考を立脚するなんてきっと無理です。カウンターだけ放っていても、思考は体系化されない。むしろ、もっともらしい意見を積み重ねた結果、しわ寄せがきて、核となる思想の居場所がなくなります。

それは嫌ですね。

とにかく、カウンターを打とうとするのをやめなければ……と、とりあえず「Yahoo!ニュース」のコメント欄を見るのをやめました。(本当はTwitterもよくないですが)

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