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苫小牧発大洗行きフェリー



北海道の真ん中から海を目指す

酷暑からようやく解放された2023年秋。
秋という季節が来てくれる、ただそれだけで嬉しかった。

道央を歩いた。
いずこも美しい紅葉が迎えてくれた。
チューブから絞りたての絵の具のように鮮やかな緋色、橙色、黄緑色。本州の紅葉とはひと味以上違う。
まぶしく澄んだ空、清々しい風。改めて自分の持つ運に感謝した。

帰りはフェリーを予約している。
昼下がり、北海道の真ん中から路線バスで南に向かった。広い道路をひた走る。色づく山里に古びた線路が見え隠れする。踏切脇で大きな三脚にカメラを据え付けて列車を待ちわびる人の姿を幾人か見かけた。

乗り換え駅にて

列車に乗り換えて少し眠る。北国の秋の日暮れは早い。苫小牧のコンビナートや貨物ターミナルが見えてくる頃には暗くなりはじめていた。

16時32分苫小牧駅に着く。学校帰りの生徒たちに混じりコンコースを歩く。駅前に出ると苫小牧西港フェリーターミナル行き路線バスが待っていた。すぐに発車する。

バス車内の乗客は大きなスーツケースを抱えた人が10人程度。それに混じって乗っている地元のご高齢の方がひときわ小さく見える。

駅前通りの突き当たりを左折して国道に入る。バスがこまめに停車して地元の人を降ろしているうちに、空は夜への衣替えを済ませた。

駅から15分ほど過ぎた頃、ようやく遠くにフェリーのファンネルが見えてきた。高松駅から高松東港までの3倍くらいの距離かもと考えているうち、16時55分フェリーターミナルビル前に到着した。

暗闇から潮の香が漂う。
13時すぎに北海道の真ん中を発ってから3時間40分、日暮れとともに海までやって来た。

落陽の後

これから乗る船は18時45分発の商船三井さんふらわあ「さんふらわあ さっぽろ」大洗行き。ここのターミナルビルは太平洋フェリー仙台行きに乗船した時(1996年)にも来ているはずだが、その時の様子はまるで覚えていない。

正面玄関は2階ロビーに直結している。館内には意外と多くの人がいる。苫小牧西港では夜に商船三井さんふらわあ大洗行き、太平洋フェリー仙台経由名古屋行き、シルバーフェリー八戸行きの3便が相次いで出港するので、その分賑わっているのだろう。

鉄道の駅と同じような出港時刻案内機が備え付けられている

一旦1階に降りる。太平洋フェリーと商船三井さんふらわあのカウンターが並んでいる。私はWebで予約を済ませているので、カウンター隅の自動チェックイン機を操作した。船室で使うカードキーを受け取る。

書類記入台にさんふらわあ

乗船案内は17時30分ごろ。30分ほど待ち時間がある。ターミナルビルの3階に上がった。

階段の踊り場には新聞の紙面が掲げられていた。

2013年3月の北海道新聞

吉田拓郎さんの「落陽」(1973年)を取り上げた記事である。”♪苫小牧発仙台行きフェリー”が歌われている詞は、作詞した岡本おさみさんが実際に体験したことという。「あのじいさん」は実在の人だった。

しかしこの記事、構成も文体もかつて某全国紙の土曜版に掲載されていたヒット曲エピソード取材記事とよく似ている。某全国紙の人に見つかったら怒られないだろうかと、余計な心配までしてしまった。

3階には苫小牧港施設の紹介、就航フェリーの歴史、船舶の模型、東日本震災・胆振東部地震などの大規模災害時対応記録などを展示する「ポートミュージアム」がある。この展示によれば、太平洋沿海フェリー苫小牧-仙台・名古屋航路は1973年4月に就航したという。吉田拓郎さんは同年11月の中野サンプラザライブで「落陽」を初めて披露、翌12月に東日本フェリーも苫小牧-仙台航路に参入した。すなわちこの歌は時代の最先端を描写していたのである。

大洗航路は1985年に当時の日本沿海フェリー(ブルーハイウェイラインを経て商船三井フェリー)により就航、1999年に東京航路と統合する形で首都圏側の港湾を大洗に集約したという。大洗は都内から結構な距離があり、交通も正直不便なところだが、船舶は言うまでもなく房総半島沖を回り込まなければ東京にたどり着けないので、合理的な判断だったのだろう。

さんふらわあの船舶は1991年から大洗航路に就航している。現在の就航船は「さっぽろ」のほか「ふらの」「しれとこ」「だいせつ」と全て北海道の地名がつけられているが、過去には「さんふらわあ みと」「さんふらわあ つくば」があったという。いずれ「さんふらわあ いたこ」や「さんふらわあ ふくろだ」ができるかもしれない。

展示室と反対側の扉を開けると、眼前にビルのようなひときわ大きい船体が上弦すぎの月を従えるように現れた。太平洋フェリーの「いしかり」である。仙台港を経由して名古屋港までおよそ39時間航行する。定期航路としては国内最長である。

文字通りジャンボな船体のフェリー

「さんふらわあ さっぽろ」は「いしかり」の西隣に停泊していた。カメラレンズを向けた先には、落陽の後を飾るあかね色がかすかに残っていた。

太陽を見送ったさんふらわあ

「いしかり」を挟んで反対側には八戸港行きのシルバーフェリーが停泊している。ファンネルの「K」は運営する川崎近海汽船の頭文字である。

苫小牧を最後に出港する

食料調達

「さんふらわあ さっぽろ」にはバイキング形式のレストランがある。明朝とお昼は利用するつもりだが、夕食についてはWebサイトの案内を見てもあまりピンと来るものがなかった。夕食バイキングは2,200円で、値上げ激しい昨今とはいえ少し考えてしまう価格。以前乗船した新日本海フェリーのビーフシチューやザンギのおいしさ、タブレット端末を駆使して単品注文を積み重ね実質的オーダーメイド定食にできるシステムの印象がまだ強いし、今回は可能ならば乗船前にお弁当を確保したいと思っていた。

売店をのぞくと苫小牧駅弁のスモークサーモン寿司弁当がひとつだけ残っていた。900円。鮭は普段から大好物なので、これはラッキー。売店側にとってもこの日の廃棄をひとつ減らせられる。近くにあった焼きそばとあわせて購入。昼間コンビニで買っていたおにぎりやパンと合わせて、今夜はしのげそう。

北海道限定乳酸菌飲料「ソフトカツゲン」は全国チェーンコンビニには置いていないので、ゲットするには意識してセイコーマートに立ち寄る必要がある

この売店では「落陽」にちなんで”おみやげのサイコロ”を販売しているというが、弁当に注意が向いていた上疲れていたこともあり、あいにく実物に気づけなかった。既に鬼籍に入っているであろうモデルの老人はそれと気づかずに”未来の苫小牧名物”を作ったことになる。

2階ロビーに戻ると団体旅行の添乗員さんが出港時刻案内機の前で

「案内板を見てください。今、”手続中”になっていますね。手続中の間はまだ乗れません。これが”乗船中”に変わったら乗ります。」

と大声を張り上げていた。ツアー参加客はほとんどが高齢者だった。

乗船

17時28分ごろ、静かともざわめくとも表現できそうなロビーに「さんふらわあ さっぽろ」徒歩客乗船開始アナウンスが流れた。長い通路を乗船口まで歩き始めるが、曲がり角ふたつ。羽田空港の保安検査場から奥のほうの搭乗カウンターまでくらいの距離があり、改めて船体の大きさを感じる。壁面には茨城県や道東方面の観光案内ポスターが続いていた。

乗船通路

係員にカードキーを提示して船内へ。足を踏み入れると5階エントランスである。予約していた部屋は6階のスーペリア和室。今の季節は個室貸し切り料金免除キャンペーンが行われていて、Web予約でさらに割引してもらえる。

6階に上がると個室スペース入口で高齢の乗客が係員と「今日はこちらのお部屋ですね」と談笑していた。常連さんらしい。

カードキーで部屋のドアを開けると、コンパクトな作りの内装が目に入った。新日本海フェリー和室の半分強くらいの広さだろうか。しかし私にはかえって落ち着く空間だった。いかにも旅館風ではなく、普段の自室と似通った広さだからと気づく。逆に言えば2人連れだと、少なくとも片方が小柄な体格でないと窮屈かもしれない。

鞄を置いて、まず冷やしておくべき食料を冷蔵庫に入れる。続けて障子を開けると窓ガラスが現れたが、窓は開けられないし、バルコニーもついていない。窓の向こうにはコンビナートの灯りと、月明かりを静かに輝かせる海が見えた。

室内はジャンボフェリーあおいと同様、ややひんやり目の温度に設定されている。滞在するうちに体熱その他で自ずと暖まっていくのだし、無駄に暖房を入れるようなことをしていないのは嬉しい。

新日本海フェリーの新潟-小樽航路は正午から翌夜明けまでの船内滞在なので、先に船内見学を済ませる必要があるが、こちらは夜出港・翌日14時到着なので、明日明るくなってから船内をめぐるほうがよいだろう。今夜はとにかく部屋にこもりたい気分なので、甲板からの夜景だけ眺めておく。

外の甲板は後ろ側しか立ち入りできない。ジャンボフェリーあおいのような前面展望テラスも、新日本海フェリーのようなフォワードサロン室も設けられていない。

甲板に出ると真っ赤なファンネルが目に飛び込んできた。夏の間は人気アニメに登場する海賊船モチーフの絵があしらわれていたそうで、それを塗りなおした跡が夜目にもはっきり見て取れた。

奥の「いしかり」と紅白をなすファンネル

それほど寒くなく、風もほとんどなかった。

♪何と何となくハーフムーン…ブレ多謝

部屋に戻る。テレビをつけて、NHKのローカルニュース情報番組を見た。途中「道南ドキュメント7.2時間」というコーナーが放送されていた。「ドキュメント72時間」ではない。NHK函館放送局の制作で、本家と同じように取材先定点に密着して、そこに足を運んでくる人にインタビューする企画。
7.2時間って7時間12分のこと?と思っていたら、本当に12時取材開始、19時12分終了なので笑ってしまった。インタビューに応じた人の中に「報道関係志望。直接人と会ってお話してみたいから。」という大学生がいたので、スタジオのアナウンサーが「NHKは直接人に会って話を聞くことができます。ご応募お待ちしております。」とコメントしてコーナーを締めくくっていた。

この企画もまた模倣だが、先の新聞記事とは異なり、潤沢な予算を使ってまる3日間取材できる中央(東京)本局に対するパロディにもなっているから、心配なく笑える。

テレビから目を離すと、船はゆっくり動き始めていた。汽笛が鳴るでも歌がかかるでもなく、静かな出港であった。

チューブ入りシャンプー

レストラン営業終了時間(19時30分)案内アナウンスに続いて、操舵室からの放送が入る。波の予想は1.0m、晴天で、穏やかな航行と大洗定刻入港が見込めるが、念のため突然の揺れにご注意をという内容だった。windy.comアプリでは明け方三陸沖に低気圧が進み、波が若干高くなると予想されていたので、この放送に安堵した。

今夜のうちに使用する水まわりスペースを撮影しておく。浴槽はないが、温水洗浄便座つきトイレの隣にシャワーがついていて、「サンライズ瀬戸」のシャワールームと同じように使える。こちらは時間制限がなく、いつでも利用可能。長距離フェリー乗船記を書く人や動画サイトで紹介する人は皆さん大浴場を楽しみにしていらっしゃるが、私は公衆浴場タイプの風呂が好きではないので、このシャワーはとてもありがたく心強い。この部屋を選んだ一番の動機でもある。

シャワースペース

部屋の冷蔵庫上のテーブルに籠が置かれていて、ドライヤーとアメニティポーチ2組が入っている。中身はさんふらわあをあしらったフェイスタオル、お手拭き、歯みがき歯ブラシセット、綿棒、ボディタオル、そしてチューブ入りのシャンプー・コンディショナー・シャワージェル(ボディウオッシュ)。シャンプー類はいずれもオーガニック精油配合で、袋を開けるとよいかおりがした。

アメニティポーチとシャンプー類チューブ

このセットはおしゃれだし、賢いと思う。通常ホテルや船室ではシャンプーやボディソープのボトルを備え付けているが、中身が少なくなっている時にあたる心配もないし、複数人使いまわしによる懸念も発生しない。清掃作業担当者の労力軽減にも役立っているのだろう。使ったチューブやタオルは持ち帰りになるが、次以降の旅で残りを使える。大浴場を使う人もこのポーチとバスタオルを持参すればすべて用が足りる。チューブが3本とも同じ色合い・大きさ・文字で、老眼をこらして細かい字をよく読まなければならないことのみが難点だった。

シャワーを浴びる前に夕食。スモークサーモン寿司弁当は見込み通りおいしかった。焼きそばは冷たいままで食べたが、翌朝船内を見て回った際、給湯室に電子レンジがあると気づいた。ジャンボフェリーあおいで551蓬莱の冷蔵ちまきをそのまま食べた体験の二の舞になってしまった。

いただきます!じゅるる♪

長距離フェリーの旅はなぜかテレビ番組ではあまり取り上げられないが、いわゆる”交通系””ひとり旅系”動画チャンネル制作者にとても好まれる題材である。皆さん「ひとりの食事」を心行くまで楽しんでいらっしゃる。私は子供の頃、”家族の食卓”の騒がしさに散々懲りたので、ひとりの食事を「ぼっち飯」などと揶揄したり、それを負い目と感じて気を病んだりという風潮には理解が及ばない。他に誰もいないからこそ、料理の風味としっかり向き合っていただくことができるのではないだろうか。

動画チャンネルを作っている人は皆さんお酒好きで、豪快に飲む姿をアップしているが、私はお酒を飲まないのでその分安上がりに済んでいる…はずである。

続いてシャワー。シャンプーやジェルに配合されているアロマが癒しになる。「サンライズ瀬戸」で慣れているし、揺れも列車よりはるかに少ないし、快適だった。

シャワーを終えて浴衣に着替え、髪を乾かすと20時を回ったところ。部屋には寝具が2組ある。厚くふかふかのマットレスの上に寝ると頭痛がして気分が悪くなる体質ゆえ、薄いマットレスを2枚敷いてその上に横になった。家の部屋にいる時に近い感触が得られた。

眠るにはまだ少し早い。携帯電話の電波は出港後すぐに圏外となったので、スマートフォンの電源を切っている。ここで取り出すのはウォークマン。なじみの古い歌謡曲を徒然なるままに数曲かけた。

21時になったので寝ようとしたところ、船内おやすみ放送が流れた。少し揺れが強くなり、気分が悪くなる気配もしてきたため、持参の酔い止めドリンクを飲んでから消灯した。

低気圧くもじいじゃ!

目を覚まし、テレビの船舶案内チャンネルをつけると4時56分だった。8時間近く、よく眠った。普段の生活とほぼ同じサイクルで就寝・起床して、体内時計を大きくずらさずに済んだことも幸いだった。

現在航行位置表示画面はジャンボフェリーや新日本海フェリーに対してかなりアバウトなデザインだが、岩手県三陸沖まで来ている模様。釜石市や甫嶺駅・恋し浜駅のある大船渡市越喜来湾も近いだろうか。

中国語表記画面ではそのまま「向日葵札幌」になる

持参してきたセーターを着こんで部屋を出る。他のお客さんが起きてくる前に船内を散歩する。

6階個室区画廊下の絵画。室内にも同じ絵が飾られていた
6階ロビー
レストラン入口
5階への階段。右上奥の扉から外部甲板に出られる
円形の姿見が印象的な6階ロビー

「さんふらわあ」の船舶は苫小牧-大洗航路の他、関西(大阪・神戸)-九州(別府・大分・志布志)航路で使われている。一般には後者西日本航路のほうが有名とみられる。これまで苫小牧-大洗航路は「商船三井フェリー」、西日本航路は「フェリーさんふらわあ」が運営していたが、2023年10月1日に合併して「商船三井さんふらわあ株式会社」が発足した。それを記念してスタンプラリーが企画されている。

会社合併告知ポスター

(1)苫小牧-大洗航路(2)西日本航路(3)宗谷岬(4)鹿児島県佐多岬の4か所でスタンプ(専用アプリを用いるデジタル式)を記録すれば賞品がもらえるという。実施期間は1年。宗谷岬スタンプは稚内駅の観光協会に置いてあるそうで、稚内に行きさえすれば楽にクリアできる。対して佐多岬はバスがほとんど運転されていない上、宿泊施設がある集落からも相当遠いという。事実上車を運転できる人限定の企画だろう。

甲板への扉を開ける。ブルーグレーの海の彼方に見える陸地はリアスの海岸。釜石市や大船渡市の沖合は既に通り過ぎて、陸前高田市沖まで来ている模様。

夜明けのリアス 陸地右端が越喜来湾・釜石か(5時30分ごろ)
7階甲板へ上がる階段から北東方向を望む(5時30分ごろ)

頭上や陸地側の西の空は雲ひとつなくよく晴れていて、空気も澄んでいる。明けの明星(木星らしい)がリアスの上を飾っている。対して東側は海上一帯に大きな雲のかたまりが浮かんでいて、その北端が朝焼け色に染まっている。

これがwindy.comなどで予想されていた三陸沖の低気圧である。従って水平線から上る太陽を眺めることは絶望的である。

日の出時刻(5時53分ごろ)が近づくと3人ほど甲板に出てきた。東に向けてカメラを構える人もいたが、見込みなしとわかるとやがて引き上げていった。7階スイートルームのお客さんも一度バルコニーに出てきたが、すぐ部屋に戻った様子。

私はなおも甲板に佇んだ。シルバーフェリーと同じく「K」のファンネルを搭載した船舶とすれ違う。後で拡大してみたら「ほっかいどう丸」と掲げられている。常陸那珂港と苫小牧を結ぶ川崎近海汽船のRORO船(貨物)とのこと。

ほっかいどう丸(6時20分ごろ)

どれくらい時間が過ぎただろうか、灰色の雲の上が輝きはじめた。

船から低気圧を見てみよう

飛行機から低気圧に相当する雲のかたまりを見下ろした経験は幾度もあるが、海上のような広い場所で低気圧の雲を横からはっきり見る経験はあまりない。日の出は見られなかったが、貴重な体験であった。

振り向けば西の空はかなり明るくなってきた。やがて発電所とおぼしき鉄塔や大きなクレーンが見えてきた。宮城県沖に入ったようである。

金華山あたり?(6時40分ごろ)
女川で合っている?(6時40分ごろ)

さすがに身体が冷えてきたので船内に戻る。廊下を歩いていたら給湯室と電子レンジを発見した。

6階の給湯室と電子レンジ

ロビーもかなり明るくなっている。

まだ人影はほとんど見られない
記念撮影スペース

朝食バイキング&スーペリア和室

部屋に戻ったら既に6時50分。2時間近くも外の海風に吹かれていた。レストランの朝食バイキングは7時30分からで、7時にそのアナウンス放送が入る。これで起きてくる人が多いとみられる。

朝食バイキングは1,200円。公式サイトの案内によればカレーがあるらしいが、それらしき鍋が見当たらない。他のお客さんが取っていれば匂いでわかるはずだがその気配もない。お客さんの姿も増えてきて、あまりうろうろするのも迷惑がかかるから、目につくものを適当に取った。そうめんが用意されているのは珍しい。

朝食バイキング

味は申し分なかったが、外の風に長く吹かれていたので何か温かいものがあればと思いかける。改めてバイキングスペースを見直すと、最初歩いていなかった一角にお味噌汁の鍋が置かれているのを発見した。追加でいただく。ドリンクバーは無料だった。

バイキングの難点は、コーナーの見落としが起こりがちなこと。ホテルでもほぼ食べ終えた後で「あれ、ここにもあったの?」と気づかされることが幾度かあった。並んでいる人の流れから外れたところに置かれているものはどうしても気づきにくい。

カレーは多分置いてなかったのだろう。食器を返却する際にも、他のお客さんが食べている匂いの気配さえしなかった。

公式サイトのレストラン案内では「夕食で数量限定の定食メニューを販売する」とされているが、昨夜それらしき案内掲示は一切見かけなかった。残念ながら実態とかなりの乖離がある模様。

太陽が低気圧の上から顔を出した(8時00分ごろ)

部屋に戻る。明るくなったので布団を片付けて室内を撮影した。マットレスにもさんふらわあマークがつけられている。

スーペリア和室。右のマットレスは部屋を狭くしてしまい、個人的には不必要と思った次第
家庭用エアコンが安心感をもたらす
冷蔵庫・電気ケトル・ドライヤー・バスタオル
コンセントはたくさん備え付けられていて、充電に困らない

振り出しにさえ戻れないのか

9時を過ぎた。船は仙台平野沖の海域を通り、さらに南へ向かっている。再び甲板に出てみた。

西側の陸地が次第に近づき、東北電力原町火力発電所(福島県南相馬市)が遠くに見えてくる。タンカーの船体を思わせる。

東北電力原町火力発電所(9時10分ごろ)

さらに進むと「あれ」に近づくはずである。原町沖から30分ほど過ぎて、望遠レンズははっきりその姿をとらえた。

美しい海が哀しい(9時40分ごろ)

東京電力福島第一原子力発電所。
あの日、この国の運命を変えた施設。
素朴で温かな響きの訛りを持った人たちが漁業農業に勤しみながら暮らしてきた静かな「磐城国浜通り」は、不本意ながら"FUKUSHIMA"として世界に発信されてしまった。原子炉棟や鉄塔の左側(南隣)に並べられている無数のタンクに息を飲む。

様々な立場や考え方があることは承知の上で私見を述べると、事故当時も今も物的被害や日常生活への影響のみならず、人々の信頼関係毀損が大きく影を落としていると思う。管理企業・自治体・周辺事業者・地元住民・他地方住民の思いや願いの裂け目が広がる一方で、もはや修復できない分断を生み出していることもまた悲劇である。とりわけ管理する側がその発信姿勢に正常性バイアスが働く傾向があることを国民に見透かされても、一向に改めようとせず強引に押し通そうとしているがゆえに、ますます信頼関係が破壊されるスパイラルに陥っている。

ここで「落陽」の詞を思い返してみる。岡本おさみさんの著書によれば、モデルとなった老人とは苫小牧市内の書店でたまたま出会った。老人は岡本さんにサイコロ賭博の様子を見学させて、「あんたみたいに筆一本で身を立てようとしたこともあった」とつぶやいたという。

岡本さんは老人の来歴についてそれ以上聞かなかったが、老人は岡本さんがフェリーに乗船する際見送りに来て、サイコロ2個をおみやげに渡した。サイコロ賭博には3個必要で、岡本さんは賭け事向きの性格ではないようだから、この道にはまらないようにと、あえて1つ減らしたという。

このエピソードが吉田拓郎さんの歌として50年歌い継がれ、多くの人の心に届けられたことにより、若き日文芸を志した老人の思いは間接的に結実したとも言える。

1970年代の苫小牧は、北海道内陸部で次々と閉山された炭鉱労働者の受け皿でもあった。「苫小牧発仙台行きフェリー」は既存の青函連絡船に加えて、本州との物流を強化するための新しい交通機関として現れた。フェリーと岡本さんは若さ・新しさの象徴で、「あのじいさん」と「サイコロ」は時代の転換点でエネルギー創出政策の変化に翻弄された古い世代の象徴とも受け取れる。

それをふまえて、今目の前にある海の光景を見直してみると

この国ときたら 賭けるものなどないさ
だからこうして漂うだけ

岡本おさみ「落陽」より

の一節は、現代にもそのまま当てはまると気づかされる。「落陽」から50年、”この国”は原子力を用いたエネルギー創出に賭けて、今それを失おうとしている。政界・財界のお偉方や強い押しで煽り立てるインフルエンサーたちの発言やふるまい、格差の拡大、重くなる一方の経済的負担に、多くの国民は気力を失おうとしている。

岡本さんは手に握るサイコロが2個なので、賭博ではなく家庭遊びの双六だと思ったのか、「また振り出しに戻る旅に、陽が沈んでゆく」と詞を締めくくっている。

振り出しに戻るのはまだ恵まれている。
今、フェリーの彼方にある施設は、振り出しにさえ戻れなくなるかもしれないものまで漏らしてしまった。

羽田空港から北海道各空港に向かう飛行機の窓からは福島市の信夫山や会津磐梯山、猪苗代湖がよく見えるが、原子力発電所のある太平洋岸はよく晴れた日、かすかに見える程度。常磐線はすぐ近くを通っているが、車窓からは施設の姿が直接見られない。震災前幾度も乗っていたにも関わらず、事故の報を聞いてすぐには距離感がつかめなかった。

ゆえに太平洋フェリーの苫小牧-名古屋航路(定刻ダイヤでは15時すぎにこの海域を通過)とこのさんふらわあ苫小牧-大洗航路が、原子力発電所の姿を最も明瞭に見渡すことができる公共交通機関となる。「苫小牧発仙台行きフェリー」として太平洋フェリーを仙台港で降りてしまうとこの光景は見られない。豪華で清潔なフェリーで旅できる今だからこそ、晴れて穏やかな日に名古屋航路または大洗航路に乗船していたら、一度は見ていただきたい。

ついでに余計なおせっかい。苫小牧西港フェリーターミナルの売店は、モデルの老人の思いを汲んでサイコロを「2個パック」で売るほうがよろしいかと存ずる。

船はさらに南下し、あの日辛うじて惨事を免れた東京電力福島第二原子力発電所沖を通過する。タンカーとすれ違った。続けてJERA広野火力発電所沖を越えると、まもなくいわき市久之浜沖である。

こちらも廃炉作業が始まっている(9時55分ごろ)
JERA広野火力発電所(10時10分ごろ)

工業からリゾートへ

いわき市沖に来ると海岸に建つものの表情が一変する。まず四ツ倉の蟹洗温泉(下写真右)、磐城舞子(新舞子)の藤間温泉(写真左)。

湘南にも舞子にも例えられる(10時20分ごろ)

地元の人は「東北の湘南」という。新舞子は神戸市の舞子にちなんでいる。このあたりは漁業の町だが、広域合併で生まれたいわき市が安藤氏城下町・炭鉱の町から温泉の町へと変化していく過程で新たに開拓された、ささやかなリゾート地でもある。フェリー甲板からも目立つ藤間温泉のビルは「ホテル浬(かいり)」だが、もともとは郵便局簡易保険保養センター(かんぽの宿)として開館した経歴を持つ。”首都圏の奥座敷”を意識しているいわき市と、首都圏や仙台近郊の都市機能を支えるべくリスクを伴う工業施設を引き受けている広野町以北の対比が、フェリーに乗っているだけではっきり見て取れるとは。現代社会の縮図はまだまだ続いている。

行く手に平(たいら)薄磯の塩屋崎が見えてくる。このあたりは「菅波」という姓の人が多く、平菅波という地名もある。数年前に放送された某ドラマで人気を集めた登場人物「菅波光太朗先生」の先祖は当地出身ではないかとひそかに想像している。主役に次ぐ重要なキャラクターでありながら誕生日や家族構成などについて一切描写されなかったので、今なお熱心なファンたちがあれこれ想いをめぐらせている。

岬の向こうは小名浜(10時30分ごろ)
いわき新舞子ハイツ沖(10時45分ごろ)

船は塩屋崎を目がけて進んでいく。ほどなく白い灯台が望遠レンズごしにはっきりと見えた。

塩屋崎灯台(10時53分ごろ)

年老いた父親の親戚が幾人か暮らしているゆえ、この地には何だかんだと出向く機会がある。ある時、塩屋崎灯台に上って「さんふらわあ」を見てみようと思い立った。その日も晴れていたが空が霞んでいたせいか、通過時刻が来ても何も見えない。船舶位置情報アプリで確認しても特に遅れてはいない様子。じりじりしながら待つうち「船は灯台沖を通過して小名浜方面に向かった」と告げるアプリ画面が表示され、肩を落とした。「さんふらわあ」船体の真っ赤な太陽は多少の霞をものともせず存在感を示すかと思っていたが。この経験から明石海峡がいかに陸地に近く、いかに船舶が密集しているかが、手に取るようにわかった。

勿来沖のキーマカレー

「11時30分からレストランで軽食営業開始」のアナウンスが流れ、再びレストランに赴く。メニューはうどん中心で、それこそジャンボフェリーを思い出す。火が使えないはずの船内で、かき揚げはどうやって作っているのだろう。

「あおい」には負けていられない!

私はキーマカレーを注文して、ようやく船内カレーにありつけた。朝は無料のドリンクバーには「280円」の札が掲げられている。まあそんなところだろうと思って部屋に戻り、冷蔵庫に残しておいたソフトカツゲンを飲んだ。

キーマカレー!じゅるる♪
お昼は訪れる人が少ない

再び甲板に出ると勿来沖を航行していた。勿来は私にとって思い出深い地。常磐共同火力勿来発電所が見える。近年は「勿来ゆめライト」としてライトアップを行っているらしい。私が行った頃は夕月ゆらめく灯り少ない海岸だったが、新たな色が加わっているだろうか。

常磐共同火力勿来発電所(11時40分ごろ)
勿来の関公園を望む。是より南、関八州(11時40分ごろ)

大洗入港

勿来を越えたら茨城県。日立市など甲板から望める町はまだあるが、そろそろ下船の準備をしなければならない。部屋に戻り荷物をまとめ、冷蔵庫の中やシャワースペースなどを点検して身体を横たえる。正午前テレビ気象情報はまだ福島県の放送だった。

13時すぎ、最初の入港アナウンスが流れる。窓の外を見たら太陽の光を浴びて陸地の細い線がはるか東へと続いていた。先端は銚子だろうか。

太陽に守られて(13時10分ごろ)

船はスピードを落とす。大洗の町が近づき、その向こうには富士山が姿を現していた。

関東入りを実感する(13時10分ごろ)

船が停止しても下船準備に時間を要するため、次の案内まで待機してほしい旨のアナウンスに続いて「さんふらわあの唄」がごく控えめな音量で聞こえてきた。近年は今どき風の新曲も作られているようで、2曲続けて流れた。

13時25分ごろ接岸の重い音が響き、そのままエンジンが切られたようで室内が静まり返る。13時40分、徒歩乗客下船案内放送が流れた。ひと晩お世話になった部屋を後にして下船口へ。13時45分大洗町に上陸した。

商船三井さんふらわあ公式サイトでは大洗港フェリーターミナルアクセスとして、茨城交通の水戸駅行き連絡バスと水戸発東京駅行き高速バス「みと号」が案内されている。以前はフェリーターミナルから東京駅行き直通高速バスが運転されていたらしいが、コロナの影響で運休と掲示されている。昨今の情勢を鑑みると、復活できない可能性も十分ある。

公共交通機関に慣れていない人は「まず東京駅に出る」ほうがわかりやすいのかもしれないが、都内の端に暮らす身分から言うと、旅行帰りの大ターミナル構内歩きは正直しんどい。たくさんの荷物を抱えた上、判断力が地方モードから切り替わっていないまま歩いていると、思いがけないトラブルに見舞われるかもと冷や汗が出てくる。それに夕方東京方面に向かう高速バスは渋滞による遅延を見込まなければならない。順調に走っていたバスが次第にテールランプに囲まれて速度を落とし、「ここはあの駅に近いし、降ろしてもらって電車に乗り換えられたら楽に帰れるのに…」という地点で少し動いては止まりを繰り返したあげく東京駅強制連行という目は避けたい。それに水戸駅行きの連絡バスは15時02分発で、1時間以上ボーッと待っているのも気が利かない。

ゆえに鹿島臨海鉄道の大洗駅に向かう。朝はセーターを着こんでいたが、下船前Tシャツに着替えて正解だった。汗をにじませながら真夏のような路地を歩き、およそ15分で到着。道内を歩き回ったあげく足が痛んでいるので結構しんどいが、東京駅強制連行よりもここで苦労しておくほうがはるかにましである。

出発前は大洗15時05分発の鹿島神宮行きに乗り、成田から京成線ルートを考えていた。同時刻発の水戸行きでは常磐線の接続列車が特急になってしまうがゆえである。しかし定刻より15分早く上陸できて、1本前の14時17分発水戸行きに余裕で間に合ったので、迷わず水戸に出ることにした。特急料金を支払うことなく、予定より2時間早く帰宅できる。

以前は水戸・勝田発上野行き普通電車がたくさんあった、というかそれが基本運用だったが、近年は朝晩以外土浦乗り換えを強いられる。土浦駅で待っていたらかつての常磐線カラー、あずき色の「赤電」を模した塗色の編成がやってきた。

かつてはホーム壁面に掲げられていたホーロー駅名板
(右、2005年6月撮影)にもあずき色の枠があしらわれていた

近くで電車を待っていた若い人が、おしゃれして街を歩くべく着てきたであろうファーのコートを畳み、強い陽射しに暑そうな表情を浮かべていた。様々な面で上世代よりも制約の多い世の中を生きることになるかもしれないと思うと、やりきれなくなる。

本稿を書いていて、そういえば船内ショップに一度も立ち寄らず、場所(5階案内所隣)の確認さえもしていなかったと気がついた。さんふらわあグッズならばアメニティポーチに入っているフェイスタオルで十分だし、少しずつ”終活”を意識していく年頃に差しかかっているし、それでよいのだろう。













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