底見える花の奥で(仮題)
『恋は日焼け止めを忘れて赤く剥けた皮膚に似ています』
それは薄羽蜉蝣の翅のようにとてもか細い声だった。
『だから私は貴女に一つ、そう、たった一つ聞いておかなければならないことがあるのです』
その言葉は人に投げかけられたものと言うには心許なく、わたしのところまで届かなかった声が彼女自身の周りに靄となって留まり続けているように見えた。
『貴女が私のことをどれくらい嫌いか、それをお聞きしても良いでしょうか』
そう問うた彼女に、わたしは言葉を返す。彼女は少し伏し目がちに『そうですか』とだけ言った。
彼女は自身の首筋にそっと手を当てた。キャミソールの肩紐が僅かにずれて、日焼けしていない白い素肌部分を細い糸の形に露出させる。
彼女は倒れ込むようにして私に覆い被さってくる。身体に伝わる彼女の熱がわたしの頭を朦朧とさせる。蛍光灯の光が遮られて、日焼けの境界線が曖昧な影となって消えていく――。
カーテンの隙間から漏れ出した陽光で目が覚めた。
夢という形で再生されていたおぼろげな記憶が、柔らかな光にかき消されていく。私はベッドから起き上がり、澄み渡る空を少しだけ眺めてからカーテンを閉めた。
物事の終わりは唐突に来るものだ――等という警句はその実巷でも溢れかえっているものだが、おおよそ今日もそんなありふれた終わりの日のうちの一つだった。だから、私はそんな夢を見たのかもしれない。私は着替えを済ませ身支度を整えると、ポケットの中にある鍵の感触を確かめながら家を出た。
弁天町から環状線を使って梅田へ。梅田からは大阪駅を経由して東海道本線を使うことになるらしい。改札を抜け、駅の看板を見渡す。五番ホーム。そこには東海道本線ではなく神戸線という文字が書かれていたが、乗換案内によると確かに目的地まで私を運んでくれるようだった。
東海道本線は東京駅から神戸駅までを繋ぐ長距離区間路線であるが、大阪駅を境に京都駅から大阪駅までを京都線、大阪駅から神戸駅までを神戸線と俗称しているようだった。既に形としてあるものを、細かく区切って明文化していく。そんな切りがなく終わりも見えない作業はどことなく彼女の面影を想起させるものであって、私は少し複雑な気持ちになった。
目的地までの時間は昔覚えていたものよりも遙かに短いもので、ものの二十分程度でたどり着いた。三ノ宮。駅のホームにはそのように表記されている。兵庫の要所を繋ぐターミナル、レンガ造りのイメージのある異国情緒溢れる街、洒脱で垢抜けている港町。そんな評判を纏っている都市。私は改札を出て、三ノ宮から元町に掛けて商店街を抜けていく。
神戸という街は、つくづく不思議な街だと思う。今そう感じていることと、あの日この街を歩いた時に感じたこと、それは全くもって何も変わらないものだった。
神戸について書かれたものを見ると、洗練された街というイメージばかりが先行してあるようではあるが、実際に商店街を歩いてみると他にも多くの物事が多層的に積み重なっている。何かの甘味の匂いがする、茶葉の匂いがする、香辛料の匂いがする。異なるものが異なるまま、それがどう混ざりあうのかというものを実際に通りがかる人の感性に委ねたまま――つまるところ、洗練されているという一言には凝縮できない質感を伴ったものとして存在している。
だからだろうか、彼女とこの街を歩いていた時と今こうしてある匂いとの差ばかりが気になってしまう。どこか異国を思わせる非日常的な匂いがあの日と変わらず漂う中で、けれど、流行り病への対策なのか、病院のような静謐で饐えた匂いが基底としてそこに在った。
目に見えているものはどこまでも変わらないはずなのに、少しでもそれとは違う要素を感じ取った瞬間に、それまで見てきたものが本物ではないかのように思える、なんて。本当にそれはそうあって欲しくないもので、けれどその実ありふれたことでもあるのだろう。店先の小さな机に置いてある霧吹きが、私に「毒液」という部分のラベルのみを見せていた。
あれは、いつの思い出だっただろうか。
様々な店が雑多に立ち並ぶ中で、彼女は突然裏路地の方へ足を運び始めたかと思うと、一軒の古惚けた店の前で足を止めた。看板も無く、ただClosedと書かれた木の看板だけが扉に立て掛けられている。彼女の視線の先を見やると、小さなガラス窓に切り取られる形で、古惚けた市松人形の姿が見えた。
『貴女は人形というものがどのようにして作られるか知っていますか』
人形――それは、わたしのこれまでの生活においてひどく縁遠いものだった。プラスチック……いえ、粘土でしょうか。私はひどく皮相的な答えだなと思いつつ、そう返答した。
『そうですね』
彼女はこくりと小さく頷く。
『ビスク・ドールと呼ばれるもの等は粘土を基に幾度かの焼き上げを経て作られるそうですし、市松人形も桐塑という粘土で作られることがあるそうですよ』
では、と彼女が続ける。それらの材料を以って、どのような技法で人形は作られると思いますか、と。わたしは答えを返すことが出来ずに口を噤む。
『少しの嘘を混ぜるんです。その方が綺麗だから』
ぽつりと彼女が零す。市松人形はモデルにした年齢に対してあえて目鼻立ちが幼く作られているそうですよ、と。
『本物より本物らしくあるために嘘を混ぜる必要があるなんて、どう聞いても詭弁にしか聞こえないですけどね』
窓を覗き込むために身体を前に傾けており、黒く長い髪でその表情は覆い隠されている。雨風で彼女の髪が靡く。彼女のスカートが翻り、青を基調に様々な色が混ぜ込まれたタータンチェックが揺らめいていた。
『”不可能な事象を取り除いて行ったとき、残るものは真実である”』
諳んじるように彼女は小説らしきものの一節を引き『それでも私は――』と言って踵を返して元来た道へと引き換えしていった。
屋根のある商店街を脇に抜け、細い路地へと歩を進める。風景を彩る色に赤色が混じり始めた。旗袍と呼ばれるスリットの入った服を着た売り子たちが、店先で呼び込みを行っているのが見える。
私はそれを横目に、かつて彼女とともに食べた記憶のある点心のお店へ向かった。
そのお店はあの日と変わらず人気であるようで、けれど一時店内利用制限ということらしく店外に多くの人が並んでいる。他の店の前まで並んではいけない、ということらしく、待機列は蛇行しながらその途中にある歩道によって二分されている。私は列に並んでその点心を買い、作り立てであるその熱を感じながら中華街を更に奥へと抜けていった。
幹線道路の上、歩道橋が大きな蛇のようにうねりながら絡み合い、先の見えない果ての果てまでどこまでも続いている。私は対岸へと渡るためにその歩道橋を横切っていく。奥へ、まだ奥へ。レトロという言葉の合う、古いという概念と新しいという概念をともに内包している建物たちの群れを抜けると、海に面した開けた場所に出た。
公園の隅の隅、『Be Kobe』と象られたモニュメントが見える。何かになるというわけではなく、ただ、そこにあるということ。彼女の、おそらく最も憧れる言葉であって、そして一方で最も嫌悪していたであろう言葉。私はそんな言葉の塊から目を背けるように、空間を切り裂くようにして存在するポートタワーと神戸海洋博物館を仰ぎ見た。
確かあれは、彼女と二人でこの海辺を歩いていた時だったはずだ。ぽつりぽつりと雨粒が頬を濡らし、街行く人々も傘を差し始めた頃に彼女は言った。
『貴女と私は、どこまでも異なる人間なのですね』
彼女の赤色の傘がくるりと回り、わたしが差している傘に接触する。わたしはそうは感じないですけれど、などと。そんな軽口を叩いたのが運の尽き。
『本当に』
彼女の傘の露先の骨が私の傘の露先の骨を搔い潜る。ぐい、と傘が持ち上げられ、傘から露が滴り、お互いの顔が露になる。冷えた唇、蒼褪めた頬、どこか虚ろな瞳。
『本当に貴方はそう思っているのですか』
震える声で彼女はそう言った。
彼女の一回り小さい傘越しに、ポートタワーと神戸海洋博物館が見えた。二つの建物はそのものを構成する形も色も異なる一方で、スペースフレームが形作る空洞部分は同じ色を共有していた。
二つの建物の空洞部分の色は青色を彩っていたあの日と異なる色をしていながらも、けれど同じ灰色を共有していた。
私はポートタワーの入場券を買い、そのままエレベーターで上階へと昇る。展望四階と書かれた場所で停止する。エレベーターの扉が開くと、そこには夜になると100万ドルと評される景色があったが、時間の関係か、或いは天候の関係か、薄ぼんやりとした風景の中に湾岸沿いにある工場の機械が見えるだけだった。
反時計回りにフロアを移動するとそこにはキータワーと書かれた掲示があり、ハートの形をした南京錠たちの群れがあった。
愛の南京錠と称されるそれは、二人の永遠の愛を誓いそこに閉じ込めておくと言うものであるらしい。屋外にある一般的なものと比べ、風も無く、ただその空間だけが動きのない静謐の中にあった。南京錠の連なりの中、群れから逸れた鳥のように南京錠が一つぽつりと存在している。アルファベットが二つだけ簡素に記された南京錠。そこに書かれていた文字は、紛れもなく彼女と私のものだった。
あの日二人で戯れに南京錠を買ったとき『永遠の愛を誓うために鍵は捨ててしまうものらしいですよ』と、彼女がそう言っていた記憶がある。わたしが捨てておきますけど、とも。あの時の私はその鍵を手放すことが出来ずに、捨てる振りだけをして今こうしてまだ手元に存在している。
私は軽く目を閉じる。鍵を南京錠へと差し込みつつ回すことを試み、けれど、固く閉ざされたままであるという感触だけが手に残った。経年劣化。異物混入。いくつかの単語が頭を過ぎるが、鍵を開けられないという結果は変わらずそこにあった。きっとこの錠は今現在の世界とはどこまでも切り離されたものとなって、最早私の手の届くところにはないのだろう。
私はそっと錠から鍵を抜き、鍵の尖った部分を指に押し付けて軽く食い込ませた後、ポケットに仕舞い込みそのまま帰途に付いた。
公園を抜け三ノ宮駅へと向かう頃には既に日も暮れ切っていた。ふと振り返ると、ポートタワーの赤色だけが藍色の空間に浮かんで見えた。
恋は、日焼け止めを忘れて赤く剥けた皮膚に似ている。そんな、かつての彼女の言葉を反芻する。その言葉は、好きな人の熱に付いていくことが出来なくなった、それがまるで罪の証とでも言わんばかりのもの。ああ、貴方は、恋という劇薬に身を預けるには少しだけ潔癖過ぎたのでしょう。それは他の人に対しても、そして自分自身に対しても。
けれど、そうした証も思い出としていつしか記憶の中に埋没していき、日々の生活の中にある情動を伴わない断片に成り下がる。
私は私自身に付いた同じ跡をそっと手で撫で、ままならないものですねとそっと零した。
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