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血液型と性格の関係

血液型による性格診断を楽しむのは、幼少期誰もが通った道だろう。しかし頭から信じ切ってあれほど楽しんだというのに、様々な知識や人間関係を深めることで、気付けば陳腐に感じてしまうものだ。あるいは変更不能な事柄を用いた性格のラベリングということに無礼な感じもする。成人してもなお血液型による性格の分類を積極的に行なっている人は、周囲から怪訝な目を向けられてしまうのではないだろうか。

科学的にも二つの関連性は大きく否定されていて、さらにはそれが大衆に周知されていっている。血液型別性格診断は、もはや前時代的な響きを帯び始めている。「あぁ、昔の人はこんなくだらないことで盛り上がっていたんだね、無知だね〜」古い本を借りた小学生が図書室でそう呟く未来がすぐそこまできている。

しかし個人的には、血液型と性格とはある程度密接な関連性があると信じている。こと日本人においては。

幼少期は人格形成において重要な時期である。自分と誰かを比べ、共通点や差異から自己を認識する時期である。
例えばO型しかいないコロンビア人、極端にB型が少ない米国黒人などに比べ、日本人の血液型分布はわりかし均等である。そしてほとんどの人が自身の血液型を自認していて、だからこそ、それによる性格分けが盛り上がるわけで……。

さらに精神発達が進むにつれて、子どもは他者を知っている人、知らない人、男女、大人,子どもといったカテゴリーに分けてとらえるようになり、自分をそれと関係づけていく。それによって自己認知も発展して、自己意識や自己概念と呼ばれるものが発達してくる。それは、認知発達を基礎とするとともに、男らしさ、女らしさなど区別して子どもに教えていたり、奨励,禁止などを用いて働きかける社会化の作用の結果でもある。

出典:子どもの発達と人間形成 後藤瑠美亜 https://tokyo-kasei.repo.nii.ac.jp/record/9871/files/2012_s_0141.pdf

ほとんどの子どもは血液型と性格との関わりを否定する科学的な知見を持ち合わせていないだろうから、男らしさとか女らしさなどに続く強烈なレッテルとして、自身の血液型的性格を受け入れる。
A型は几帳面、O型は大雑把、とはよくいうが(バーナム効果を利用して大きな矛盾を避けている)、誰しもが几帳面であり大雑把な部分を持ち合わせているのにも関わらず、自分の血液型に符号する性格だけを自己のものとしていく。


「あかりちゃんが私より早く逆上がりが出来たのは、天才肌のAB型だから」
→それは努力家ともとれる。

「A型のそうたくんは真面目だ。宿題を忘れたのを見たことがない」
→忘れておらず、かつA型でない人はクラスにたくさんいる。

「横山先生の板書の文字はちょっと読みづらい。きっと大雑把なO型なんだろう」
→横山先生は左利きのために黒板に書く文字が乱れている。

「ある日突然逆上がりが出来た!AB型だし、きっと天才なんだわ私!」
→いいえ、あかりちゃん。それは毎日朝早く学校に来て練習するほど努力していたからだよ。

小学校にこのように逐一反論してくれる人はいなかったし、仮にいても煙たがれるだけなので、みんな少しずつ影響を受けていく。


スマホを持つ小学生が増えている昨今では、そうでなかった私たちの時と比べて、信憑性が失われているのかもしれない。
自分のある部分は几帳面である部分は大雑把、と抵抗なく考えられる子どもが、もうすでに結構いるのではないだろうか。
そうなると、とても自由な自己を見出せる気がして、ちょっと羨ましい……(私の時が不自由だったわけではないけれど笑)。

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