憤りを見守る
憤る、ということについて ちょっと
書いてみたくなりました。
今風にいうと、憤る というのは"モヤモヤする、イライラする"という感じでしょうか。
みなさん、最近モヤモヤしましたか?
憤ってますか?
モヤモヤするって、感覚的にとても スッキリ
しないですし 出来れば早く通過したいというか
そんな類のもののように感じますが
案外、私は この"憤り"に対して
しつこく紐解く、掘り下げる、それを抱えたまま生きる ということを 大切にしてきたように思います。
"憤り"の背後に隠されているものは
現状、一筋縄には理解できないものだけれど
確かにそこに 何らかのヒントや価値観や
言語化するに至らない "何か"が眠っていることを感覚的に知っていて
それが紐解かれたときの開放感や、自分なりの
納得感や落とし所、
自分で紐解くことで訪れる 慰めや癒しが
確かにそこにある、と経験則的に理解しているからなのだと思います。
人からしたら、まだそのことについて考えていたの?と驚かれてしまいそうで
大抵、考えてないようなふりして考えているんですれど
(身近にいたら、こいつ憤ってんな。とバレてそうです)
それでも、私が一番嫌なのは、
"憤りを 大雑把に処理すること"だなあと
自分の性癖について、
ここに降参し、白状することにしました。
あらゆる感情を紐解けば、
シンプルなエネルギーに帰結すること。
私達を前進させる熱源となるもの、です。
積極的にセラピーを学んだことのある人になら、親しみのある概念であっても
まだまだ 感情は
ネガティブ、ポジティブと大雑把に分類してしまいがちではないでしょうか。
絵を描く人なら、微妙な色彩やタッチ
にこだわるように
写真を撮る人なら彩度や明度にこだわるように
"表現"に対する向上心が健全に存在するように、
それと同じように
ネガティブな感情を感じ、紐解き
解凍する作業も、健全な表現なんだよなあ、と
思っています。
ネガティブを見守り、抱えて歩くうちに
ある日、ある種の体力がついていることに
気がついたり
心を通わせ合うための表現力が広がったりと
案外 素敵なこともあるよなあ、と思っています。
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