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その学びはどこから。

今、ヨガをもう少し深めたいという気持ちがある。
私のヨーガを受けてくれる人に、もっと価値のあるものを提供したいと思うからだ。スマホを開けば、世の中には講座が溢れかえり、魅力的な広告で私を惑わせる。

でも待てよ、「もっと価値のあるもの」ってなんだろう。
今の私のヨーガを必要とする人は必ずいるはずだ、と感じたから自分で教え始めたのではなかったのか。あれれ?今のままではだめなの?

何度か書いているとは思うけれど、ここ一年ちょっと、コーチとの個人セッションを通して自分自身というものを徹底的に見直してきた。幼少期の頃からのため込んだ思いを解放しながら、少しずつ少しずつ。

そして、やっと今の私に至るわけだけれども、私の場合、「学びたい!」「やってみたい!」と衝動的に感じるとき、それが自身の内面の不足感からきていることが多く、この気持ちの取り扱いがとても難しい。
静かに時間をおいて、それがどこから来るのかをしっかり見極める必要がある。

私は劣等感というか、自己否定というか、「自分はまだまだ十分でない」という思いが強すぎるが故に、外側の何かで自分自身を埋めようとする傾向がとても強い。そこで識別を誤ると、学びの途中で「なんか違う」となってしまうし、あとは払ったお金の元を取りたいという動機しか残らない。

お金さえ払えば簡単に何でも手に入る世の中だからこそ、「なにかやってみたい」、「学んでみたい」と思えばすぐに叶ってしまう。
それが純粋におもしろそうっていう「興味」ならいいけれど、「誰かのために」とか、「世の中のために」、という動機に見せかけた「足りない自分を満たすため」であるとしたら、それは私にとっては自分らしくない選択【not-self】なのである。

この識別が本当に難しい。
私はなかなか巧妙に「わたし」をだますことを知っている。
大切なのは「興味がある!」っていう純粋なその気持ちだけ。

ここまで書いてみて、私はもう気付いている。
8月にヨガの指導用講座を単発で受けてみようかなと思っていた。まあまあ高額。でも出せない額じゃない。うーん、どうしよう。
でも、今はもう受ける必要ないなって思っている(笑)。

まだまだ自分のヨーガに付加価値をつけたくて、外側の物質的なもので隙間を埋めようとしているみたい。そうじゃないはず。
日々のヨーガにもっと真剣に取り組んでみるだけで、きっと自然に満ち足りてくるはずだから。もう私は全てを持っている。

大丈夫、大丈夫。
今の私でいいんだよ。
何度でも私にそう伝えよう。
私たちはブラフマンなのだから。

来年、トライしようと思っていることが二つある。今はそのための準備期間みたいなものだけれど、けっこう無謀な挑戦でもあるから、ついつい不安という名のエゴが顔を出す。
「そんな挑戦辞めときなよ」
「会社員しながら出来ること探したら」
「今のままでも十分幸せでしょう」

でもね、やっぱりやりたいんだよ。
「興味がある!」って素直に思える私でいたいんだ。
そして、それに気づいてしまったら、もう元には戻れないんだよ。


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