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変えられた

2021.12.5
人生3回目となる証をした。

1回目:洗礼の時
2回目:神様と自分

3回目:Jesus at the center

この日は、たまたま久しぶりに神学校の先生のメッセージだった。無牧のため数年前まで月1でメッセージに来てくださっていた先生。イエス様が人として生まれてきてくださった理由についてのメッセージで、とても恵まれ、途中から涙が止まらなかった。久しぶりにメッセージで涙を流した。なんだか心がガチガチに固かったのが、粘土のような、チョコレートのような、捏ねられるくらいの柔らかさになっていくのを感じた。そして聖霊の働きを感じた。

証の後、高校生から、すごく証の内容共感したわ!なかなかクリスチャンって言いにくいよな、、と話してくれ、クリスチャンホームで育つ若者のために、また教会から離れている若者のために何か仕えるのもいいなあと思ったりした。
メッセージが終わると先生から、証よかったよ。神学校へ来ないか、医療宣教をしないか、と声をかけていただいた。何度か今まで声をかけていただいていたが、私はやりたいことがあり、日曜クリスチャンで放蕩息子をしていたようなもの(2回目の証)であり、そんな器ではないと思っているため断っていた。今回もそうやって断った。先生から「初めて会った時から医療宣教の人やと思ってた」と言われ、その道も悪くはないけど、伝道の賜物はないし、、と正直な気持ちを伝えると、「賜物なんて変わるのよ」と話され、話はそれで終わった。先生と初めて会ったのは高校生の時か、それよりも前だったと思う。両親に先生からそういう風に声をかけられたことを話すと、親にも神学校に来るよう唾付けとかな!と話していたようで、実は2年前、親には私が神学校へ行く事を勧めていたと言う事を初めて聞かされた。

家に帰るとなぜか先生からの言葉がループして、一回祈ってみるのもありかなと思い始めた。また、ドイツの宣教師の先生から送られてきたクリスマスカードに医療宣教の召は続いていますか?と、書かれていたことを思い出した。たまたまyoutubeを見ていると自分の教会の牧師がCGNTVで"宣教師を送り出す教会"というテーマで出ていた。なんというタイミングなんや、、怖いなあと思った。祈るうちに、神様に身を(全てを)委ねて生きていくことに対する負の感情が少しずつプラスに変えられていった。
タイミング的にも、金銭的にも(神学校の学費と自分の貯金額)ぴったりで、神様が用意してくださった道なのかなと思う反面、まだでも、今の(好きなものを食べて買える)生活、職場での地位を含め、全てを捨てるということに決心がつかなかった。また絶対教職者にはならん!と思っていた自分が変えられていっていることに自分自身ついていけず困惑する気持ちと心の葛藤が始まった。

12.6
大学・職場が一緒のクリスチャンの友達に連絡し、温泉に行きこのことを話した。本当に○○(私)、変わったよな。と。大学生時代からの私を知っているからこそ、そう言ってくれることに嬉しさを感じた。そして、その友達の知り合いがとある神学校に通っており、その人が"流れるプールに身を委ねるみたいに神様に身を委ねるねん。自分の思いで力むと沈んでしまう。"と話していたことを教えてくれた。本当にその通りだと思った。もしその道に進むべきであれば、何か印を、御言葉をくださいと祈るようになった。祈った時、神様からはすでに御言葉は与えているではないか、と言われてる気がした。証の時の御言葉を。

12.10
彼氏がいないクリスマスは寂しい、と話すある同期(昔は教会に通っていたクリスチャン)。私はその同期に彼氏がいないクリスマスも別に悪くないよ、クリスマスは彼氏と過ごさなきゃいけない日ではないし、なんせイエスキリストの誕生日やから!と伝えることができた。本当のクリスマスを知って欲しいと思う反面、まだ伝えることに躊躇してしまう自分であったが、伝えることができて、心のつっかえが取れる感覚があった。

12.12-13
夜勤中。無意識に私が"もろびとこぞりて"を鼻歌で歌っていた。すると先輩(ノンクリスチャン)が"主は来ませり〜主は来ませり〜主は主は来ませり〜"と続いて歌ったのであった。歌詞を知っていること、そして主が来るという歌詞を歌っていることに驚いた。その後、続けてその先輩(職場で唯一facebook友達になってる人)から、そういえば○ー○ー(私)ってキリスト教よな?Facebookみて思っててん。と。どんな反応されるかやはり怖い私は視線を合わせずパソコンを打ちながらそうですよ、と答えた。すると、もう1人の先輩が、クリスマスってなんかするの?教会行ってるの?毎週それっていくの?お祈りしにいくの?家族で行くの?この近くやとどこにあるの?どこの教会に行ってるん?それどこにあるん?クリスマスはイエスキリストの誕生日よな?宗派とかってあるんや!仏教とかもあるもんな〜と、とても興味を持ってたくさんの質問がやってきた。少しずつパソコンから目を外し、直接先輩方の顔を見て話すことができた。
4年間働いてきて、同期以外に初めてクリスチャンであることを告げた。どう思われるかなという怖さ・躊躇する気持ちは無くならないが、昔の自分とは違って、本当のクリスマスを知ってほしい。その思いが勝った。昔はどちらかというとクリスチャンなんだし、神様のことを伝えなくちゃ、だったけど、今は伝えたい!に変えられていることに気づいた夜であった。感謝。

12.18
来年(4月)からどうするのか。今の仕事を続けるのか転職するのか、という話を両親からされた。実は産業保健師(公務員)試験を受けていて、その結果が先日出た。結果は不合格。
試験を受けたのは10月で、12/5までは教会の奉仕をしっかりしたいから日曜日休みがあるこの試験に受からせてくださいと祈っていた。しかし、12/5以降、もし神学校への道に進むべきでしたら不合格にしてくださいと祈っていた。親に結果を伝え、4月から神学校を今視野に入れていることを伝えると、"神様からのビジョンがないと。単純に人に言われたからって理由じゃあかん。海外行きたい×看護師・保健師→医療宣教なんて甘い考えはあかん。5年は働き。どこでも5年で一人前いうやろ。もういま12月やで。これが10月とかやったらまだ考える時間があるからいいけど、もう4月の話やろ。もう一年看護師しながら考えたらええやん"と。でも、、と主張を続けたかったが、明らかなビジョンがある!と言えない自分がいた。国や地域、重荷に思う場所や人が明確にいるわけでもない。なんとなくこの国(地域)もいいなと思う気持ちはあるがそれは神様から与えられているものではなく自分の考えのような気もした。また、今のこの生活から逃げたいという思いがより拍車をかけたのかな(やりたい仕事では無い仕事を続けることにあまり納得していなかった)と思う自分もいた。私に今与えられている気持ちは単純に私の欲だったのかとわからなくなってしまった気持ちと、主張できなかったと言うことに対する気持ち、賛成しない旨を言われたことに対する悲しさなのか、何なのかわからないが涙が込み上げてきた。神様に祈り、聞くしかない。鎮まって神様の声を聞きたい。
夜、クリスチャンの友達が出演するクリスマスコンサートに行った。そこで語りのあるミュージックの中でこの御言葉が心に響いた。

[伝道者の書 3:11]
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。

ビジョンは必要だと思うが、神様が行うみわざは私達が計り知れないことであることを感じさせられた。

12.19・22・23
神学校の3週間コース、3年コースを卒業したクリスチャンの友人、大学から一緒のクリスチャンの友人と遊んだ。その中で今与えられているこの思いについて話した。そして、たまたま漫画のキングダムを読む機会があった。
そこで気付かされたのは、神様によって私は造られたこと。こんな元気な体で、夜勤をしても体調を壊さないこと。夜勤明けで2時間半かけて愛知県まで人に会いに行ったりする体力が与えられていること。海外に行きたいという思いが昔から不思議な形で与えられていること(同じ看護師でも海外に行きたいと思う人は少ない)。備えられているのではないかと、それぞれから言われた。そこでハッと気付かされた。今こうやって元気に過ごしているのも、神様がこんな風に私を造ってくださったんだということ。感謝だなと思った。

12.27
母とランチへ出かけ、やっぱり神学校に行きたいと言う話をした。御言葉や夢を見るなど確実なものがないと行けないと、話していたが、最後にはお母さんもわかってる。○○○(私)が召されてるって。でも今なんかなって思うと。ほんまに考えてるなら牧師先生に話して相談しなさいとのことであった。

12.31
実家に帰ったが、確信がまだないままで、話し出すことができなかった。一言だけ、4月からの仕事についてやけど、やっぱり神学校に行きたいなと思ってる、と話すと、牧師先生に話してみたら?とのことであった。帰り道、牧師先生に連絡を取り、予定を空けていただいた。お風呂場で神様にやっぱり御言葉が欲しいです、と泣きながら祈った。
前にもらっていた御言葉の箇所をもう一度読んでみようという思いが湧いてきて、読んでいるとこの箇所に目が止まった。

[イザヤ書 43:5,6,7,8,9,10]

  恐れるな。
  わたしがあなたとともにいるからだ。
  わたしは東からあなたの子孫を来させ、
  西からあなたを集める。
  北に向かっては『引き渡せ』と言い、
  南に向かっては『引き止めるな』と言う。
  わたしの息子たちを遠くから来させ、
  娘たちを地の果てから来させよ。
  わたしの名で呼ばれるすべての者は、
  わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。
  これを形造り、また、これを造った。

  目があっても見えない民、
  耳があっても聞こえない者たちを連れ出せ。
  すべての国々をともに集わせ、
  諸国の民を集めよ。
  彼らのうちのだれが、われわれにこのことを告げ、
  初めのことを聞かせることができるだろうか。
  彼らが自分たちの証人を出して証言し、
  人々がそれを聞いて、『本当だ』と言うようにせよ。

  あなたがたはわたしの証人、
  ──主のことば──
  わたしが選んだわたしのしもべである。
  これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、
  わたしがその者であることを悟るためだ。
  わたしより前に造られた神はなく、
  わたしより後にも、それはいない。

本当にこんなもの(私)を選んでおられるのですか?いいのですか?と思うと共に、家族に対してへの御言葉なのかなと思う自分もいた。

2022.1.2 新年礼拝
礼拝終わりに牧師先生にこの思いを始めて聞いてもらい、相談した。祈ってくださり、確信に変える方法を教えてくださった。泣きたいわけではないのに、なぜか涙が止まらなかった。毎日旧約と新約を一章ずつ前から読み祈る日々が始まった。毎日デボーションする中でイザヤ48章に出会った。

『…わたしは今から、新しいことを、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせる。…わたしは、あなたが必ず裏切ることを、母の胎内にいるときから背く者と呼ばれていたことを知っていたからだ。…「わたしはあなたの神、主である。わたしはあなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。…喜びの声をあげて、これを告げ、聞かせよ。地の果てにまで響き渡らせよ。」』

放蕩娘となることも知っていたと、そんな私であっても導いてくださり告げることを許してくださっていると語りかけてくださっているように感じた。今後に対することは以前と何も変わらず未定であるのに、この思いが与えられてからなぜかとても平安があった。

こうして神学校へ行く決心をした。

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