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vol.1_9高校生時代①(入学からの急展開)

KJとは
KJの説明をもう少ししようと思う。
KJは川口の住んでいる新潟市から「新幹線」で
40分の距離。新潟→燕三条→長岡と通過した先の「浦佐」という辺鄙なところにある。
なぜ辺鄙なところなのかというのも理由があるがまたの機会に。
家から遠いので入学するにあたって選択肢は2つ。
親元を離れて「寮生」になるか
片道約2時間かけて「新幹線通学」になるかだ。

学年の半分が寮生、もう半分が通学生(その中でも新幹線通学は稀)という構図のKJは、当時隣接学区制の縛りもまだ強く、「普通科」という名前では全県から生徒を募集することができなかったために、 入試の入口から
将来文系の仕事に就きたい人が志望する「国際文化科」と
将来理系の仕事に就きたい人が志望する「情報科学科」に別れており、
そうすることにより全県からの生徒募集を行う方針をとっていた。

学習塾で勤めることになり、文理選択が他の高校では、高校2年のカリキュラムから徐々に変わっていくことに驚いたくらいだ。
東京の中高一貫で学んでいる学生との張り合いなのか
カリキュラムは公立と思えないような進み方をしていた気がする。

結論、15歳で親元を離れるのはなんか
親不孝な気がした川口は新幹線通学をすることに決断をした。寮生にもなってみたかった、、、。

新幹線通学と言っても定期代がバカにならない。
月7万円の定期(学割を適用して)の三ヶ月定期を持っていたので、常に21万の定期を持っていた。
私立に通うのと変わらないかむしろちょっと高いのではないかというような感覚だ。
一人っ子ということもあったが、今思い返せば本当に父母には感謝しかない。この環境を手にできたことは、親の協力無くしてはあり得ないからだ。

のどかじゃなかった・・・
高校進学してからの急展開が特に印象的で
めまぐるしい日々が続いた。とても田んぼの畦道をのんびりという風な高校生活は送れそうもなかった。

急展開1残り1000日」
校長先生の壇上での初めの一言。
「入試まであと約1000日です。あなたたちは高校生ではありません。KJ生です。『学ぶ青春、意気高く』が本校のスローガンですので、その自覚を持って過ごしてください。」と。そして1000日のカウントダウンをするボードが下駄箱前に設置をされた。

余談だが、KJの入学式は入学を許可されるものの名前が全員呼ばれる。その際に元気な返事をしてしまったために、そこから3年間学級委員長になることとなる。卒業式は、卒業証書授与式で一人ひとり卒業証書を受け取る。なんて素晴らしい高校。

急展開2「平日4時間、週末6時間」
なんの数字かというと家庭学習のノルマの時間である。家庭学習をKJでは宅習というのだが、宅習時間で終わるか終わらないかという量の宿題が毎日出る。
もちろん入学してすぐのこと。英語の和訳作成、古文の現代語訳作成、数学のワークなどをこなすことで精一杯の日々だった。宅習記録表(宅記)という自己管理ツールも紙で配られ、昨日の勉強内容と時間を担任に報告。虚偽または単純に量が少ないと個別面談に呼び出される。担任の先生も毎日コメントをつけてくれていたが、相当大変だったと思う。

急展開3「合格点は8割」
毎朝必ず小テストが実施され(1日1教科)
8割に満たないと必ず再テストが行われる。
そして構内の一番目立つところにその小テストの順位が夕方あたりに張り出させる。(他クラスはもちろん、先輩・後輩にも学力?努力?が筒抜けであった)不合格だった場合は、放課後の部活の時間を割いて再テストを行わさせるので、躍起になって勉強していた。部活は勉強から解放されるチャンスの一つだったからだ。

急展開4学年160名の弊害」
川口は小・中とサッカー部に所属していたこともあり体験入部として4月月初にサッカー部に顔を出した。人数が少ないこともあり、新入生に部活も頼らざるを得ないこともあるようだ。
そこで運命を変える先輩と出会うこととなる。
「お前も新潟市から来たのか。明日から朝5時の電車に乗れ。俺もそれに乗ってるから。朝練するぞ。」
そう空気も読まず言い放ったのが、大滝先輩である。

大滝先輩だけで何十章も書けそうな勢いだが
次回だけになんとか留められるよう努力をすることとする。

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