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🎬フェイブルマンズを観て(ネタバレあり)

先日、AmazonPrimeでフェイブルマンズ(吹替版)という映画を見た。

この映画はあの有名なスティーブン・スピルバーグ監督の自伝的映画ということで、ヒット作を次々と作ってきたスピルバーグがどんな環境で育ったのか興味があったので観たんだけども。

スピルバーグ(映画の中ではフェイブルマンズという名前)は幼少の頃は映画嫌いだったようで、そこは意外だった。

お母さんの不倫を乗り越え、お父さんとの葛藤などもあり、また芸術家の叔父との出会いなどもありながら、スピルバーグは成長していくんだけども。

鑑賞していく中で、この映画の中で1番心が揺さぶられたシーンがあった。

そのシーンは、フェイブルマンズがカリフォルニアの高校へ通い始めると、ユダヤ人というだけでイジメに遭うようになる。

そんな中、遠足に行くことになり、16ミリフィルムでその遠足の模様を撮り、編集し上映した後で、フェイブルマンズをイジメる体格の良い生徒に「なぜ?あんな風に俺が輝くように作ったんだ?イヤミか?」と問われた。

実はフェイブルマンズは、その遠足の映画の中で、そのイジメてくる生徒が徒競走で走っているシーンにおいて、ゴール前でスローモーションに編集し、ゴールを抜けたら羽ばたいてるように下から撮り編集していた。

フェイブルマンズはその生徒に
「君とわずかでも仲良くなりたかった。」と言い、続けてその生徒を罵り嫌いだと言った。

そしてフェイブルマンズはさらに言う
「でも良い作品にしたかった。君を羽ばたいてるようにした」と。

僕はこのセリフを聞いた時に、スピルバーグ(フェイブルマンズ)は凄い境涯だなと感心した。

僕なら嫌いな人間がフィルムに写っていたら、完全に作品から消すだろうと思ったけど、スピルバーグは違ったんだなと頭が下がった。

僕らは信心をしていても、苦手な相手、悩める事柄など次々と縁をし、それを乗り越えようとは決意するが、なかなか難儀で避けようという生命が纏わりついているものだ。

「良い作品にしたかった。」

しかしそれは、自分の生き様という作品作りの途中のその時々としてのワンシーンであり、総じて信心を持って生きていく中で、自分が主人公の物語の1つひとつのシーンに対し安易に憎んだり避けたりせず、冷静に祈り良い形を選び、作品として作っていく。ここが大事になるんだろうと、改めてフェイブルマンズのそのシーンに学んだ。

苦手な相手、悩める事柄をどう(映画的に言えば)編集をすれば輝かせれるか、そこを見つめて祈り行動した時、滑稽さもあり涙もあり笑いもある自分の広布史という物語も昇華するんだろう。

師匠も人生は自分が脚本家になり、自分がドラマを作っていると。

つまり本質は心の彩りをどう価値あるものにするか、ドラマのシーンは絵のような感覚もあるから、智顗が一念三千の法門を説明する際に引用した「心如工絵師」にも通づると思う。

それでも辛苦になり、それもまた戦いであるだろうけど、連帯という部分でも挑戦していかなければいけないことなんだと思った。

🎬「フェイブルマンズ」
オススメです。

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